見出し画像

私は努力家

 さきほど、障害者福祉のセンターで、認定調査というものを受けて参りました。障害者の福祉のサービスを受けるために必要になるものです。100個くらいの質問があり、それに答えるというものでした。1時間とちょっとかかりました(支援員のかたは、それからまとめねばならないでしょうが、私のやることは終わったということです)。

 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む)のあらゆるかたに質問する内容でしたが、たとえば、寝返りは打てるか、とか、料理ができるか、とか、道に迷うか、とか、電話が使えるか、など、さまざまな質問がありました。かなり私の「欠点」を当てている質問もありました。また、微妙なものも多かったです。

 そこで、改めて思ったのは、これらの「私のできないこと」のほとんどは、発達障害か精神障害かで説明できるものばかりだということです。逆に言うと、それ以外のことは、私は努力してできるようにしてきている。私はずっとできないことばかりで、叱られてばかりで育ち、職場でも叱られてばかりですので、これは公言はできませんが、心の中でひそかに思っていることは、「私は努力家だ」ということです。

 これは、40歳のときに発達障害の診断を受けて以来、自分で自分を見つめるようになって、だんだんわかってきたことですが、上の「認定調査」の100の質問のような事がらは、少なくとも生まれてから40年間は、ずっと、ずーっと、「自分の努力不足ゆえにできないこと」というふうに認識してきた、という歴史があるわけです。小さいころから、それで周囲の大人たちから厳しい叱責を受け続けましたし、自分でも自分のことを「努力の足りない人間だ」というふうに認識してきた、ということがあります。これが、ひそかにとはいえ、「自分は努力家だ」と思えるようになったのは、あたかも「太陽が地球をまわっているのではなく、地球が太陽をまわっているのだ」と認識したくらいの、驚くべき大発見で、逆転の発想です。この自分が、努力家だったなんて!(ずっと努力の足りない人間だと思っていたよ!)もちろん簡単にひとには言えません。周囲の人間は、相変わらず私のことを「努力不足の人間。おそらくお勉強さえできればあとは大目に見られてきた甘やかされた人間」と見ていますので、公言はできません。(私は、努力していても、およそ「努力しているようには見えない」人間である、ということも大きいでしょう。そういったこともわかってきました。)ただ、上の「認定調査」をしてくださった支援員のかたに、「私は努力家だと思うようになった」ということを告げましたら、「よかった」と言われましたので、「これはやはり大発見なのだ」と思い、記事にする気になりました。たしかに私は、発達障害および精神障害でできないこと(が多すぎるので、「お前は何をやらせてもできない」と叱られてばかりになってしまうのですが)を除くと、私は、けなげなくらいに努力して、できるようにしてきています。障害特性によってできないことすら、けなげなくらいに努力して、少しでもマシになるようにがんばっています。これは、私の実態を知っている(「なにをやらせても一人前にできない」)人の前ではうかつに言えないことではあるのですが、たしかに私は努力家です。がんばり屋さんです。(「がんばり屋さん」という言葉は、小学生くらいで、けなげにがんばっているということが周囲の人にもよくわかる子にかける言葉です。私は、「がんばっているようには見えない」人間だったので、「がんばり屋さんだね」と言われたことはまったくないのですが、45歳のいま言います。私はがんばり屋さんです。)こんなこと、生まれてから一度も、言われたことがないので、自分で言うのは気恥ずかしいのですが、私は努力家です。大発見!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?