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新共同訳聖書

非常にくだらないことを書きますね。よほど聖書マニアのかたでなければ、お読みにならなくてもだいじょうぶです。以下は第1弾なので、いずれ続きを書くかもしれません。

『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)について、気が付いたことを書きますね。

「あなたたちの命を贖(あがな)うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。」(出エジプト30:15)

これを読んで私は次のように思いました。すなわち、2メートル以上といえば、普通、2メートルは含みます。3個以上といった場合、普通、3個は含みます。
ですから、半シェケル以上と言ったら半シェケルは含みますし、半シェケル以下も同様です。
そうなると、半シェケル以上払っちゃダメで、半シェケル以下払っちゃダメなら、なにも払えなくなってしまいます。
これが、「半シェケルより多く払っちゃダメで、半シェケルより少なく払ってもダメ」と書いてあれば、ああ、半シェケルぴったりを払えばいいのだな、ということがわかります。

聖書には、「バシャンの王オグ」という脇役が登場いたします。しかし、注意深く読んでいると、これが「バシャン王オグ」と記載されている箇所が2箇所、見つかりました。
なにが違うかお気づきですか?「バシャンの王オグ」と「バシャン王オグ」。「バシャン」と「王」の間に「の」があるかないか、です。(後者は民数記32:33と申命記4:47です。前者は数多く、上の2箇所の間でいうと、申命記1:4などです。)

これに似た「の」があるかないか、という新共同訳聖書の表記の不統一で、私が気がついたものを、以下に挙げたいと思います。

「バビロンの王」と「バビロン王」の混在です。
前者のほうがずっと多くて、後者は続編も含めて6箇所(続編を含まないと4箇所)だと思います。この中で注目に値すると思われる箇所は、列王記下24:12で、この節の中だけで、「バビロン王」と「バビロンの王」が混在しています。

次に、「アッシリアの王」と「アッシリア王」の混在です。前者がずっと多く、後者は続編まで含めて4箇所、続編を含めないと2箇所にのみ出てくるようです。私は、イザヤ書36章を読んでいて気がついたのですが、そこまでずっと「アッシリアの王」(イザヤ36:1からずっと)だったのが、36:18で、急に「アッシリア王」になったので驚きました。聖書本文検索で調べてわかりましたが、私は列王記下18章にも出てくるのを見落としておりました。しかもイザヤ18:1以下と列王記下18:13以下は、どうやら並行記事(同じような話が複数のところに出てくる箇所。福音書などに多い)のようでして、しかも、「アッシリア王」が出るタイミング(列王記下のほうは、18:33に出ます)まで一緒なのです!どうも、新共同訳聖書は、「コピーアンドペースト」で作ったのではないか、と疑われてもおかしくないところです。

それから、「エジプトの王」と「エジプト王」の混在です。両方とも、よく出てくるようです。

最後に、少し王ではない例を挙げます。「軍隊の長ピコル」と「軍隊の長のピコル」の混在です(「長」と「ピコル」の間に「の」があるかないかです)。この「軍隊の長ピコル」というのは、創世記に3回、出てくるだけの、超脇役ですが、その創世記の、21:22、21:32には「軍隊の長ピコル」と出てきて、26:26で、「軍隊の長のピコル」と出てきます。これも、表記の不統一だろうと思われます。

さて、「の」があるかないか、の話はこれくらいにします。

レビ記17:10以下の段落に、「血を飲むな」というゴチックの表題(以下、小見出しと言います。聖書の本文ではないものです)がついております。しかし本文を読みますと、出てくる表現は、一貫して「血を食べる」であって、「血を飲む」という表現は出てきません。
そこで、この小見出しは、「血を食べるな」とするのが適当ではないでしょうか。

小見出しの話が出ましたので、ここで、小見出しにかんするネタを、いくつかまとめてお目にかけたいと思います。まず、ルカによる福音書24:13以下の、「エマオで現れる」という小見出しです。
これは、教会ではとても有名な物語ですが、よく読むと、以下のようなことがあります。
二人の弟子がエマオという村へ向かっていました(24:13)。途中から復活のイエスが一緒に歩き始めましたが、二人はなぜかイエスだと気づきません。そして28節で「一行は目指す村に近づいたが」とありますが、この「目指す村」がエマオを指すことは、少なくとも私には明らかに思われます。イエスはなおも先に行こうとする様子でしたが、ふたりはそれを引き止めて、3人で宿泊するために家に入ります。もちろん、まだエマオには誰も着いていません。そして、イエスがパンを裂いてふたりに渡したとき、ふたりにはそれがイエスだとわかったのですが、イエスは見えなくなりました。ふたりはエルサレムに引き返しました・・・。
という話で、結局、3人とも、だれもエマオに着いていないのですが、ここの小見出しは、「エマオで現れる」です。「エマオへ行く途中で現れる」ならば、わかるのですが・・・。

また小見出しの話です。
申命記31:14以下の小見出しです。「神の最後の指示」となっています。しかし、この段落の、会話文でない地の文を読みますと、いっさい「神」とは書いてなく、すべて「主」と書いてあります。したがってここの小見出しも、「主の最後の指示」のほうがよいのではないでしょうか。

小見出しの話を続けます。
出エジプト32章の小見出しは「金の子牛」です。これもかなり有名な物語です。しかし、本文を読むと、どこにも「子牛」は出てこず、「若い雄牛」と書いてあることに気づかされました。そこで、この小見出しも、「金の若い雄牛」とするのが適当ではないでしょうか。

もうひとつだけ、小見出しの話をいたしますね。
ダニエル書5章の小見出し「壁に字を書く指の幻」です。
これも、けっこう有名な物語です。しかし、本文をよく読みますと、現れたのは「指」そのものであって、「指の幻」ではないことがわかります。したがってここの小見出しも適切でない気がいたします。

次に、ルビ(振り仮名)にかんする件です。

まず、「毎年」という言葉にどういうルビを振るか、不統一であることに気づきました。「まいとし」と振るか、「まいねん」と振るかです。聖書本文検索で調べると、モーセ五書で「まいとし」、それ以外の旧約で「まいねん」、新約は1箇所ですが(ルカの12歳のイエスの物語。ルカ2:41)「まいとし」、続編は、たとえば一マカバイの中でも混在しているようです。文脈による使い分けとも思われません。

出エジプト記22:24の「高利貸し」に「こうりかし」というルビがふってあります。『広辞苑』には載っていない読みです(「こうりがし」と書いてあります)。しかし、辞書によっては「こうりかし」と書いてあるようなので、間違いではありません。ちなみに聖書協会共同訳では「こうりがし」というルビになっています。

次です。これは、すでに私以前から知られていたことのようでしたけれども、「固執」という言葉のルビです。「こしゅう」と読むか、「こしつ」と読むか、です。ヨブ14:16をはじめほとんどの箇所は「こしゅう」というルビなのですが、ただ1箇所、フィリピ2:6に出てくるとき、「こしつ」というルビが振ってあります。このフィリピ2:6は、「固執」という言葉が聖書に出てくる箇所のなかでは突出して有名と思われる箇所で(「神と等しい者であることに固執しようとは思わず」)、ここだけを「こしゅう」になおすわけにもいかないでしょうねえ、という感じです。ルビの不統一です。

次です。新共同訳聖書では、「荒れ野」と「荒野」は、もとの言葉が違うようで、使い分けておられます。しかし、5回だけ出てくる「荒野」ですが、普通の読みは「こうや」です(例、イザヤ23:13)。しかし、エゼキエル29:9、29:10に出てくる「荒野」は、「あらの」というルビです。この「こうや」と「あらの」のルビは、不統一だと思われます。

次です。「父母」のルビです。「ちちはは」と読むか、「ふぼ」と読むかです。創世記2:24「男は父母を離れて女と結ばれ」は「ふぼ」で、出20:12「あなたの父母を敬え」が「ちちはは」なので、これは、律法っぽいところが「ちちはは」で、それ以外が「ふぼ」なのかな、と思って観察していますと、以下のことがあります。すなわち、マルコ10章の同じページで、この2箇所とも引用されていますが、マルコ10:7は「ふぼ」、律法の引用と思われるマルコ10:19も「ふぼ」で、やはり一貫性は見られず、不統一であると考えざるを得ません。

次です。「依存」のルビです。新共同訳で「いそん」とルビが振ってあるのを読んで、少し違和感を覚えました。私はこの字は「いぞん」と読むのだと思っていたからです(アルコール「いぞん」しょう、スマホ「いぞん」)。しかし、新共同訳はすべて「いそん」、『広辞苑第七版』も、「いそん」という読みを優先させていました(いぞんと読んでもいいんですけど)。これだけですと、新共同訳聖書は、極めて正しい日本語を使っておられますね、ということです。しかし、これはなにか聖書協会共同訳へのフォローにつながったようです。

次です。「山羊の魔神」という言葉が聖書に何回か出てきます。この場合「魔神」は必ず「ましん」という読みです。「まじん」ではないのかな?と思った私は、また『広辞苑第七版』を引いてみますと、そこでは、見出しは「まじん」ですが、ましんと読んでもいいらしいことがわかりました(こういう宗教的に専門性の高い言葉について、広辞苑にたよるのは不適切かもしれませんが)。

次です。「慈しみ深い」という言葉のルビです。この言葉は何回か出てきますが、詩編59:18などでは「いつくしみふかい」となっております。しかし、エズラ7:9などでは、「いつくしみぶかい」となっております。
これはルビの不統一ではないでしょうか。ちなみに有名な讃美歌は「いつくしみふかい」と歌いますね。あれも、けっこう知らないかたは、「いつくしみぶかい」と読んでしまうこともありますね。

次です。「恵み深い」という言葉のルビです。ほとんどは「めぐみふかい」というルビですが、ごく一部の箇所、たとえば一ペトロ2:3などに、「めぐみぶかい」というルビが出てきます(あと続編にもあります)。

次です。「悪口」のルビです。あるかたが、この言葉を「わるぐち」と読まれました。聖書には「わるくち」とルビが振ってあります(「く」はにごらない)。気になった私は、礼拝から帰って、調べてみると、新共同訳では、「悪口」に「わるぐち」というルビが振ってある箇所はありませんでした。ただし、「あっこう」というルビが振ってある場合がけっこうあります。とくに区別はない感じです。『広辞苑第七版』では、「わるくち」と「あっこう」は同じ意味でした。

次です。「着替える」に、「きかえる」というルビが振ってあるのを見て、また違和感を覚えました。「きがえる」ではないのか・・・。しかし、新共同訳は動詞は「きかえる」、名詞は「きがえ」とルビを振り、また『広辞苑第七版』でも、動詞は「きかえる」、名詞は「きがえ」が見出しです。新共同訳聖書は、まったく正しい日本語を使っておられますね。勉強になりました。(『新改訳2017』は、「きがえ」「きがえる」です。)

次です。「モーセは激しく怒って」(出32:19)、「モーセは怒って」(レビ10:16)で、前者は「いかって」というルビ、後者は「おこって」というルビです。おそらく不統一です。普通は、新共同訳聖書は、「いかって」とルビを振っているだろうと思いますね。「おこって」は珍しいのではないでしょうか。

次です。「行く道」のルビが、「いくみち」だったり(イザヤ45:13)、「ゆくみち」(ヨブ13:27)だったりします。いずれも抽象的な意味での「行く道」です。

次です。「代々にわたって」を「よよにわたって」と読ませるか「だいだいにわたって」と読ませるか、です。レビ3:17は「よよにわたって」ですが、コロサイ1:26は「だいだいにわたって」です。これも不統一でしょう。前者が普通であり、後者は珍しいと思います。

ルビにかんする件をこのへんにしまして、次に、敬語にかんする件、ひとつです。
すなわち、マルコによる福音書11:3の「主がお入り用なのです」「すぐここにお返しになります」というところですが、弟子が、自分の「上司」であるイエスに、他の人にたいして、敬語を使っている場面です(正確に言うと、そのようにイエスが言わせる場面ですが)。日本語では、普通、こういうときは、敬語は使わないと考えられます(韓国語では使うことがあると、ある講演で聴いたことがありますが)。どんな平社員でも、外部の人にたいしては、社長に敬語は使わないですよね(例外が少しあり、学校の先生と病院の先生は例外だと思います。「校長先生がおっしゃったとおり」なんて、よく聞きますよね)。これは、マルコがもっとも顕著なのでマルコを挙げただけでして、マタイ21:3、ルカ19:31、ルカ19:34(ルカではほんとうに弟子がそのように言いますね)でも同様です。
この問題に気づいておられる聖書翻訳のかたはいらっしゃるようで、あるかたに教えていただいた、フランシスコ会訳聖書の最終版ではないものでは、ここで敬語を使っていないものもあったようです。ただし、フランシスコ会訳の最終版では、やはりここは、ちょっと敬語になっています。

続いて、様々な日本語の表現の不統一などについてです。

「生き永らえる」と「生き長らえる」の混在ですね。前者はたとえば創世記17:18、後者はたとえば詩編79:11などに出てきます。

「捕らえる」と「捕える」の混在。前者はたとえばフィリピ3:13(有名な箇所)をはじめたくさんの箇所。後者は詩編10:9など。後者は詩編に多いですね。

「卵」と「玉子」の違いです。前者がほとんど、後者はヨブ6:6だけだと思われます。しかし、よく考えてみて、辞書なども見て思いますが、「たまご」には、「生まれること前提」の「たまご」と、「食べること前提」の「たまご」とあるわけです。「玉子」は、食べること前提ですね。これから弁護士になる人のことを「弁護士の玉子」とは書きません。しかし、「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」(ルカ11:12)という用例もあるとおり、食べること前提でも「卵」という字が使われている箇所もあります。(どうせなら、全部、「卵」にすればよかったのに!)

「取るに足らない」(列王記上3:7)、「取るに足りない」(ルカ17:10)のような、微妙な不統一もあります。「足らない」と「足りない」は、『広辞苑第七版』を引いても、どちらでもいいようです。私が、「取るに足りない」ことで「固執」しているみたいですね。

箴言13:11に、「財産は(中略)増やすことができる」と書いてありますが、いっぽうで、箴言28:8に、「財産を殖やす」と書いてあります。同じ「財産」を目的語としたときの「ふやす」について、「増やす」と「殖やす」の違いがあります。

ルツ記の2章に、「若い者」(9節)と「若者」(15節、21節)が出てきます。「若い者」と「若者」ではなにが違うかというと、原文はなにも違わないようです。

「暴言をはく」(箴言2:12)。「吐く言葉」(哀歌3:62)。同じ意味での「はく」ですが、漢字かひらがなかの違いがあります。不統一のようです。

「いやす」(出15:26ほか)と「癒す」(詩編36:9ほか)の混在です。不統一でしょう。「癒やす」はないみたいですね。聖書協会共同訳は「癒やす」です。

「あなたは神の子だ」(マルコ3:11)と「お前は神の子だ」(ルカ4:41)。これ、いずれも悪霊のセリフなのですが(並行していると考えられる)、不統一でしょうか。

箴言の14:1に「こわす」と書いてあります。ほとんどは「壊す」(一コリント3:17など)と漢字です。どうも詩編や箴言に不統一が多いようですね。担当者が違ったのでしょうか。ちなみにその箴言14:1は「無知な女は自分の手でそれ(家庭)をこわす」と書いてあるのですが、むしろ愚かな男が家庭をこわすような気もします。これは余談でした。

「なにゆえ」という言葉が、漢字だったりひらがなだったりしています。漢字(「何故」)のほうがはるかに多いですが(たとえばエレミヤ5:19など)、詩編2:1のように、かなり有名な箇所で、ひらがなだったりしています。不統一でしょうね。

「子供」(マルコ9:37ほか)はたくさん出てきますが、「子ども」(エズラ記ラテン語9:43)が一か所、出てきますね。不統一でしょうね。惜しいですね。

「はかりごと」という言葉を漢字で書くか(「謀」)、ひらがなで書くかの不統一。これは明確な住み分けがあるみたいで、旧約では「謀」(詩編31:21など)で、新約には出てこず、続編で「はかりごと」(一マカバイ2:63など)みたいです。

「みもと」(「身元」ではなく、神様のもとという意味での「みもと」です)をどう書くか。新共同訳では、「御もと」と「みもと」の2種があります。これも住み分けがはっきりしており、前者は旧約、後者は新約と続編です。前者の例は詩編5:5など、後者の例はヨハネ17:5などです。

「信じる」(ヨハネ20:29ほかたくさん)と「信ずる」(エフェソ1:1ほか)の混在。このパターンは多いですので、以下にまとめて記しますね。

「生じる」(レビ5:3ほか)と「生ずる」(イザヤ34:1ほか)の混在。

「禁じる」(出30:15ほか)と「禁ずる」(ヨナ3:7)の混在。もっとも、後者は会話文での言い方かもしれないとも思います。

「命じる」(創世記22:2ほか)と「命ずる」(イザヤ45:11ほか)の混在。以上です。

話は続きます。「むなしい」と「空しい」の混在。前者は詩編18:43など、後者はコヘレト1:2など。

「だれ」と「誰」の混在。前者は創世記4:15ほか、後者は詩編27:1ほか。しかしこれ、なにかの基準があるようにも思えなくもないですね。

「他の神々」(たのかみがみ)は、出23:13など、たくさん出てきますが、ヨシュア24:16に、「ほかの神々」が出てきます。これはなんでしょう。

イザヤ43:18に「思いめぐらす」が出てきて、イザヤ53:8に「思い巡らした」が出てきます。つまり、「思い巡らす」という言葉の「めぐらす」のところを漢字にするかひらがなにするか。不統一でしょうかね。

「あがめる」は普通、ひらがなのようです(例、ルカ1:47「わたしの魂は主をあがめ」)。しかし、いわゆる主の祈りだけ、なぜか漢字になります(マタイ6:9「御名が崇められますように」、ルカ11:2も)。あまりに顕著なので、気になります。

「かたくな」という言葉を、ひらがなで書くか、漢字で「頑」と書くか。前者の例は出4:21ほかたくさんの箇所、後者の例は詩編95:8などです。使いわけにも思われませんので、不統一でしょうね。

「ひざ」はほとんど漢字で「膝」と書いてあります。イザヤ45:23など。しかしここを引用するローマ14:11は「ひざ」とひらがなです。不統一でしょうか。

ついでに「ひじ」も調べてみると、ひじは、ひざに比べるとずっと聖書での使用頻度は低いです。しかし、ヨブ31:22「肘」(漢字)、シラ41:19「ひじ」(ひらがな)という不統一があります。ひじが聖書に出てくるのは、おそらくこの2箇所です。

「かがみ込む」という言葉の書き方ですが、どうも3種類あります。多くは「かがみ込む」という「かがみ」がひらがな、「込む」が漢字、という場合で、イザヤ46:1ほかです(「かがみ込み」)。そして、詩編57:7「屈み込んで」という、「屈み」も漢字であるケース、そして士師5:27のように「かがみこみ」とすべてひらがなであるケース、とあります。不統一でしょうかね。

「身につける」という言葉を、(着る意味ではなく)抽象的な意味で使う場合ですが、イザヤ47:12は「身につけた」と「つける」はひらがなですが、エズラ記ラテン語6:26では「身に付ける」と「付ける」が漢字です。不統一でしょうか。

「喜び躍る」という言葉は、詩編2:11「喜び躍れ」ほかほとんどの箇所で、「喜び躍る」という漢字です。例外的に、「喜び踊る」になる箇所が(「おどる」の字をよくご覧ください)、歴代誌上15:29「喜び踊る」とルカ6:23「喜び踊りなさい」です。このうち歴代誌のほうは、サムエル記下に並行記事がありますので、そこを見てみますと、サムエル下6:16「跳ね踊る」となっています。「跳ね踊る」という言葉は、聖書全体でここにしか出てこないのではないかと思います。これが「踊る」という字になることから、歴代誌のほうの例外的な用字になったのではないかと考えられます。また、新共同訳聖書は「コピーアンドペースト」でつくったのではないかと疑われる可能性のあるところです。

新共同訳聖書は、「起こる」と「起きる」という言葉については、(私は統一しなくてもいいのではないかと思いますが、)なにかの出来事が起こる場合は、「起こる」で統一しているようです。「起きる」を使うのは、目が覚める意味のときだけのようです(「朝、起こる」というわけにはいきませんよね)。しかし、数か所の例外があるみたいです。旧約には例外はないようなのですが、新約に数か所、続編にも少しあるみたいです。注目すべき箇所は、黙示録16:18で、ひとつの文で、両方出てきます。すなわち、「そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また大きな地震が起きた」。両方出てきたのにお気づきでしょうか。統一するなら、二回目を、「起こった」とせねばならないでしょう。(統一する必要はあまり感じませんが・・・)

二マカバイには、「この話はこれぐらいにして」という、この著者の書きぐせと思われるものがあります。そのうち、2:32は「これぐらい」、7:42は「これくらい」となっていて、これは不統一でしょう。

「水をくんで」(創世記24:19)と「水を汲む」(イザヤ12:3)の混在ですとか(「くむ」が漢字かひらがなか)、「ダビデの王座に座る」(エレミヤ17:25)と「ダビデの王座にすわり」(エレミヤ22:30)の混在(「座る」が漢字かひらがなか)など。

最後に、本当にこれは誤植だ、と言えるような間違いを、2つ、お目にかけて、終わりにいたします。
まず、巻末の付録の地図が新共同訳聖書にはありますが、2 出エジプトの道 という地図の話です。この地図の、死海の左下あたりに、「ツインの荒れ野」という地名が載っております。しかし、これは民数記20:1などを開けばおわかりいただけるのですが、この地名は、「ツィンの荒れ野」が正しいです(「ィ」が小さい)。これはさすがに誤植だと思われます。新共同訳聖書は、この箇所、訂正されることになりました。聖書協会さんのサイトの訂正一覧(https://www.bible.or.jp/read/read08.html)をご覧いただければと思います。2018/6/18付けで訂正が載っています。

もう1箇所は、やはり巻末の地図で、10 マカバイ時代のパレスチナ という地図です。この地図の、死海の左上あたりに、「ベトホロン」という地名が載っております。しかし、これは、一マカバイ3:16、続編をお持ちでないかたには、たとえばヨシュア10:10 などをご覧いただければわかるとおり、「ベト・ホロン」が正しい地名です。同じく地図でも、4 統一王国時代 という地図には、ただしく「ベト・ホロン」と載っています。(「ベト」と「ホロン」の間に中黒。)これもさすがに誤植であろうと思われます。

最後に一言。よく「聖書は世界最高のベストセラーだ」といった言い方もなされますが、そのわりには、みなさん、あまりちゃんと、聖書を読んでおられないんじゃないですか?笑
という、私からのささやかな問いかけでした。

以上です。私が誰だかわかっても、言っちゃダメですよ笑。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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