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「レットイットビーを弾くべし」

 教員時代、オーケストラ部の筆頭顧問で、物理のG先生というクリスチャンがいました。G先生はオルガンが得意で、ピアノ伴奏が得意で、通奏低音も弾ける人でしたが、オーケストラには詳しくなかったです。(それどころか、この地方はかなり文化の水準が低く、教えに来るプロの音楽家たちも、おそろしく水準の低い人ばかりでした。それは私の耳の良さだとかいうレヴェルではなく、純粋に知識の面だけでも、はなはだしく彼らは無知で、「私だけが極端に詳しい」という状況は、かえって私がバカにされるだけでした。)G先生は教会で役員をしており、奏楽者(オルガニスト)もしていました。あるとき、彼はこう主張しました。牧師が説教で出した話題に音楽の話があれば、後奏(礼拝の最後の音楽)でその曲を弾くべきだ!それが奏楽者の心得だ!と。たとえば牧師が説教で「レットイットビー」の話題を出したら、奏楽者は後奏でレットイットビーを弾くべし!レットイットビーを弾くべし!あまりに「レットイットビー」しか言わないので、私が「牧師がヘイジュードの話題を出したらヘイジュードを弾くのですよ」というと彼はすかさず「ヘイ!柔道!」と言った。

 のちに私は2018年のこの時期(つまり年度末)、2度ほど金曜夕拝での奏楽の機会がありました。ピンチヒッターです。私は残念ながらまともにオルガンが弾けません。しかし、無伴奏よりはマシなので、せめて単旋律(なら弾ける)でもあったほうがよいので、弾きました。2回目、若い伝道師が説教でレミオロメンの『三月九日』の話題を出しました。(3月9日だったのだ。いま自作の「曜日マクロ」で調べてみると、確かに2018年3月9日は金曜日だ。)まったく知らない曲でしたが、私はその曲を後奏に弾きました。シンプルな和音の曲であったので、ベースラインと少しの和音もまじえて弾きました。私は生涯で礼拝の奏楽の経験は2度ですが、それでもそういう経験があります。

 それから、私は、水曜の祈祷会であれば、いまでも奏楽をしています。本物の奏楽者ではないですし、そもそもオルガンは弾けないのですから「ないよりまし」状態です。これは「後奏」はないため、そのようなチャンスはないのですが、前奏を弾く前にレジュメにざっと目を通し、「ニムロド」(旧約聖書創世記10章8節)が出て来るのを見て前奏にエルガーの「ニムロド」を弾いたり(ただし和音はわかるのですが指がまわらず単旋律になってしまった記憶あり)、あとは旧約聖書イザヤ書40章1節以下が出て来るのでヘンデルの「メサイア」の歌の1曲目(歌詞がその箇所)を弾いたり、ということはありました。いずれも楽譜を見たことはないです。

 それから、G先生と楽しく音楽室のピアノで「お遊び」をしていたとき、私がたまたまラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の冒頭を弾いたら彼は「聴音ばっちり!」と言いました。つまり彼は、私が「聴音(耳コピ)」を「ばっちり」してきて、準備万端整えて弾いたと思っているのです。違うよ。私はその曲の楽譜は見たことがないし、その箇所を弾いてみるのも初めてだったと思うよ。

 とにかく、G先生には、教会の奏楽者として、一生に1度あるかないかの「牧師が説教でレットイットビーの話題を出す」というタイミングを待ってもらうことにしよう。ほんとうに、賢くない人のあいだに行っちゃダメだね、私は。

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