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この人は、こういう人なんだな、と見ます

 私はおよそ15年前に、結婚と引っ越しと就職を同時にやりました。そのころ父から言われた厳しい言葉があります。日記にも書いてありました。結婚式の翌日です。結婚式と披露宴を台無しにしたと言われた私(妻も含めれば「私たち」)は、両親から叱責を受けていました。克明に日記に記しています。それはあとから「あのときこんなひどいことを言われた」と言うために記録したのではありません。「ぼくはもうすぐ社会人になるのだ、しっかり胸に刻まねば」という思いで書いています。つまり、そのころは、まだ洗脳まっただ中でした。

 たくさんあるうちのひとつの言葉、父が聞いた、ある企業の採用の人の言葉「この人は、こういう人なんだな、というふうには見ません。見たままを評価します」。これを父から言われました。つまり、この人はこういうふうに見えるけれど、じつはこういう人なんだな、というふうには見ない、ということです。あくまで「見たまんま」で評価する、それが社会だと。「社会は厳しいのだ、そんなキリスト教の『博愛精神』ではないのだ、甘えるな」というのが父の言いたかったことでした。私は胸に刻みました。最近も、この話を父にしたら、父は変わっていない証拠に「その通りだ」と言いました。

 しかし、私は、見たままで評価されたら、最低の評価にしかなりません。だからこそ、いまの職場は立ち行かなくなったのです。そもそも「障害者手帳を取得する」って、「そうは見えないけど、じつはこうだから、配慮してくださいね」ということなので、「見たままを評価します」であれば、通用しない世界です。そもそも、母は数年前から、心臓病で障害者手帳を持っています。でも、内部疾患なので、見た目は元気そうです。しかし、父は「お母さんは大変なんだから」と言います。おかしい。元気そうに見えたら、それは元気だと評価されるのが社会ではなかったでしたっけ?

 いま、住まいでも実家でもない、遠い地の教会の一室に泊まらせていただいています。ここでは私は「この人は、こういう人なのだ」と見られています。私は気が付かないうちにたくさんの失礼をしていると思いますが、「この人はこういう人なのだ」と思われて、ゆるされていると思います。もちろん、みんな人間に過ぎず、私は迷惑をかけ、みなさんも私を傷つけることがあります。それでも、こちらにしても、みなさんは悪気があったわけではないことがわかってきます。言い訳をする必要もありません。そもそも理由を述べねばならない状況である時点で、すでに疑われており、信頼関係ではないです。私は信頼されているのです!私も、神様によって造られた、人類の一員だからです!私にはよくないところがたくさんありますけど、いいところもあるのです!父の言っていた「社会の厳しさ」は、一面でしかなかった。「この人は、さぼっているようにしか見えないけど、じつはがんばっているのだな」とか「この人はのろいけど、この人なりに速くやろうとしているのだな」とか、もっといろいろあると思いますが、そう思われて生きるのはありがたいことです。つい責められているようにとらえてしまうのは、私の昔からのクセ。だれも私を責めていません。世の中には善意の人がいることを信じて、「この人はこういう人なのだ」と思われて生きていける。先のことはわかりませんけど、世の中には一定数の善意の人がいると信じて、その善意に触れ、感謝して生きていきたいです。さっきから結論が同じような文章ばかり書いてすみません。そればかりが思いにあるものですから。

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