見出し画像

指揮者とオーケストラ―両方の経験のある者の感想

指揮者とオーケストラ―両方の経験のある者の感想

 (これは私がときどき書くクラシック音楽のネタですが、本日は「指揮者とオーケストラ」というテーマで書こうとしています。私はアマチュア・オーケストラでフルートやピッコロを吹いてきた経験があり、また、3年間という短い期間ながら、指揮者の経験もあります。その経験からこのテーマで書こうと思います。やや長い文章になるかもしれませんが、「指揮者って実際にはどういったものだろう」と思っておられるごく一般のかたにもお楽しみいただけるような文章を書きたいと思っています。よろしければお付き合いくださいませ。)

 ある牧師が冗談まじりに言っていたことがあります。男が乗ってみたい台(壇)が3つあるのですって。ひとつが銭湯の番台。おそらく女湯が見てみたいからでしょうね。もうひとつが指揮者の指揮台であり、最後のひとつが教会の牧師の説教壇だそうです。私は銭湯の番台の経験こそありませんが、後述の通り指揮者の経験はあります。また、牧師ではありませんので説教の経験はないようでありながら、いわゆる教会学校の子供の礼拝の説教の経験や、キリスト教学校の礼拝での説教の経験はありますので、「指揮台に上る」のと「説教壇に上る」経験はあるわけです。

 私の音楽との出会いは、物心がついたころから家にピアノがあったことです。物心がついたころからかなり正確な絶対音感がありました(むしろ、その絶対音感が最も正確だったのは「物心がついたころ」でしたでしょう。46歳になる現在にいたるまで、「絶対音感がじょじょに不正確になってゆく」道をたどっているように思います)。ここから書いていると長くなりますので、私がフルートと出会った中学1年のときまで時間を飛ばします。なにしろ今日のテーマは「指揮者」ですので。中学のときに吹奏楽部に入り、フルートを始めました。指揮者はもっぱら、顧問だった音楽の先生でした。たまに文化祭などでは学生指揮がありました。その程度であり、あまり「指揮者」の強い思い出はありません。

 高校は、県で一番の進学校に行きました。そこは吹奏楽部がなくオーケストラ部のある学校でした。私はオーケストラ部で引き続きフルートを吹きました。その学校のオーケストラ部は伝統があり、戦後まもなく音楽の教師として赴任した器楽の先生が辣腕で、非常に熱心にオーケストラ部の設立と指導に当たって、その伝統が私の在学していた期間にも続いていたわけです(いまではどうだか知りません)。私が在学していた期間は、顧問の音楽の先生が声楽で、あまり指揮が得意でなかったこともあり、おもに学生指揮でした。学生指揮者でも優秀な指揮者はおり、忘れられない指揮者の先輩もいます。また、その指揮の苦手な音楽の先生も、正面きって「私はじつは指揮が苦手です」とは言えないこともあり、大きな舞台で指揮をなさることもありました。この先生の指揮はなかなかとんでもなく、たとえば2拍子の曲を「1,2」「1,2」と指揮すべきところで「2,1」「2,1」と指揮したりするのでした。この先生の指揮を見ていたのでは音楽が崩壊するため、学生は指揮を見てはいけないので、自然と横のつながりが強くなり、とても自発性の強い、アンサンブルの強い名演奏となるのでした。この「指揮者がダメだと名演奏になる」という皮肉な現象の逆として、「指揮者がいいと演奏がダメになる」という経験もしていますが、それは後回しにして、とりあえず時系列で書きたいと思います。

 大学は東大に行き、いわゆる「東大オーケストラ」と言われるオーケストラに入りました。東大には複数のオーケストラがありますが、私が入ったころは、この伝統的なオーケストラくらいしかなかったものです。極めて本格的なオーケストラで、厳しいのでした。これもいくらでも脱線して余談が書けますが、とりあえず「指揮者とオーケストラ」というテーマに沿った話だけ書きますと、東大オケには当時、4人の指揮者がいました。いずれもプロの指揮者です。全国的に有名な指揮者もおり、それほど有名ではない指揮者もいました。東大オケの(少なくとも当時の)顕著な特徴として、「本番の指揮者が練習もすべて指揮をする」というものがありました。これは他の大学を経験していませんのでよくわからない点もあるのですが、多くの学校は、おそらく「練習指揮者」と「本番指揮者」がいるのだろうと思います。普段は「練習指揮者」が指揮しており、本番の指揮者は、有名な指揮者を招く代わりに、本番とゲネプロと、あと何回かの練習を指揮するだけだろうと思うのです。東大オケの恵まれていたところは、本番指揮者が練習もすべて指揮するところでした。「東大ブランド」を振りかざせば、もっと「全国的に有名な指揮者」を指揮台に招くことは可能だったろうと思いますが、そうはせず、決まった指揮者に練習から見てもらうスタイルでした。実際にはそれらの指揮者にはあまり有能ではない指揮者も混じっており、しかし「空気を読む」東大生は、決してそれらの「無能な」指揮者先生をバカにすることなく、ひたすら指揮者を「立てて」いたのでした。むしろ、「弦楽器トレーナー」「木管楽器トレーナー」「金管楽器トレーナー」「打楽器トレーナー」に、一流のオーケストラのプレイヤーの先生がたくさんおられ、そういう先生の適切な指導によって東大オケの水準は保たれていました。また、指揮者も無能な人ばかりではなく、無名ながら優秀な指揮者はおいでになり、そういう有能で性格もよい指揮者によっても東大オケの水準は保たれていたように思います。また、東大オケではすべての団員が個人レッスンにつくことを義務付けていましたが、私は中学のときから習っている地元の先生に習い続けました。多くの人はそれが気に入らなかったようですが、私が振り返って思うに、その個人レッスンの先生は非常に優秀であり、私が出会ったおよそどのような指揮者、またトレーナーのなかでも、群を抜いて有能だったのはその個人レッスンのフルートの先生でした。

 私はそののち、ある市民オーケストラに短期間、在籍しました。そのオーケストラの指揮者は、おそらく私を指揮した指揮者のなかで最も世間的に成功を収めている指揮者で、いまでも海外でも活躍する「国際的な」指揮者です。たしかに、(バトンテクニックと言いますが)棒の振り方は抜群にうまかったです。変拍子の難しい曲(コープランドの「エル・サロン・メヒコ」など)でも、的確に指揮をし、ただピッコロを吹いているだけの私にも、はっきり「入り」を指示してくるのでした。ここで先ほどの「優秀な指揮者ほどダメな演奏になる」話題に戻ります。この指揮者がそうだったのです。ここまで指揮がうまくて的確だと、オーケストラは「すべて指揮者頼り」になってしまい、自発的に合わせようとする意識が下がってしまうのでした。おまけにこの指揮者は「指揮はうまい」のですが、それに比して耳はあまりよくなく(とはいえ私の耳の良さに比べるとどの指揮者も耳はよくないことになりますが)、総合的にみて「指揮はうまい」ものの「優秀な指揮者」とは言えないものでした。(繰り返しますけど国際的に活躍する大指揮者ですよ!私の要求水準が高すぎるだけだと思います。後述する地方都市の学生オケ参照。)

 そのあとも、私はしばしば特定の団には所属せず、フリーランスの状態が長く続きました。つまり「アマチュア・ソリスト」の状態が長く続いたのです。いまから考えてみると、生まれたときから発達障害を抱えていた私にとって、「みんなでいっしょにすること」の極致である「オーケストラの団員」というものは、根本的に向いていないものだったのでしょう。これは「オーケストラの好き」な私にとってはジレンマでしたが、とにかく当時は自分が発達障害であることも知らず、ただただくやしい思いで「アマチュア・ソリスト」を続けていたのでした。

 ずっとのち、数学者の道を閉ざされた私は、ある地方都市の中高の数学の教員になり、その学校のオーケストラ部の顧問になりました。演奏こそしないものの、またオーケストラと関わる機会があったわけです。しかし、地方都市というものはおそろしいもので、東京とはまったく文化の水準が異なり、当時のそこのオーケストラ部のコーチは、おそろしく水準の低い人物で、しかもおそろしく性格が悪く、始末におえないのでしたが、とにかくこのレヴェルの人が幅をきかせるのがこの町の特徴でした。私の出身地も似たようなものでしたが、まだマシだったように思います。そのコーチは無能すぎて指揮もできないため、指揮はもっぱら学生指揮でした。

 のちに、このコーチの後任となった人物(私が目をつけてコーチを依頼したのですが、こういう私の功績は忘れられていくという職場でした)は、かなりマシでした。性格がずっとまともだっただけではなく、音楽的にもだいぶマシでした。しかし、やはり地方都市の限界で、この人物も、東京の「偉大な」音楽家に比べると、話にならないほど情けない音楽性しかもっていないのでした。ほんとうにこの11年にわたる教員時代、そして同時にこのオーケストラの顧問であった時代は、情けない思いばかりしました。しかし、私の音楽性を見抜いた同僚の強い、なかば強引ともいえる導きによって、最後の3年間、私はこのオーケストラの指揮者になりました。たった3年とはいえ、かなりたくさんの指揮の機会をもらいました。基本的には、その情けないプロの指揮者が日程的に来られない日の本番を指揮する指揮者、そして練習を見る指揮者だったのですが、とにかく「耳の良さ」で私を上回る人間はめったにいないため、そして圧倒的な知識でも負けないため、私はそのオーケストラで指揮者を務めることができました。こうして、冒頭に述べた「男が乗りたい台」のうち、「オーケストラの指揮台」と「教会の説教壇」には立ってきたのでした。現在、世のかなりの、私よりはるかに音楽性のない指揮者が多いなかで私は指揮台に立てず、世のかなりの、私よりはるかにつまらない説教しかできない牧師が多いなかで私は説教壇にも立てていないですが、せめてこのnoteの記事で、それらの無能音楽家と無能牧師へのうっぷんをはらそうとしております。ぐちにまみれた記事でごめんなさいね。前にも書いたことで恐縮ですが、私はフルートよりはピッコロが向いており、それ以上に指揮者が向いていました。

 なんと、ここまでが前置きなのです!私のオーケストラ経験を駆け足で述べるだけで、これだけの文字数を費やしてしまいました。本論のほうが短かったらどうしよう、と思いながら、いま書いています。なお、付けたしですが、これだけ文化に地方差があるということは、東京にしても、もっと文化的な町、たとえばウィーンとか、ベルリン、アムステルダム、パリ、ロンドン、フィラデルフィア、シカゴ、ニューヨークなどに比べたら、かなり野蛮であることも容易に想像できます。その、国内では名門と言われる東京大学にしても、世界規模で見ると、たんなるある国のひとつの大学に過ぎません。

 私の好きな指揮者で、レオポルド・ストコフスキーという人物がいます。この名前は私の記事にしばしば現れるので、私がストコフスキーを好きなことは気づいておられるかたも多いのではないかと思います。1882年生まれで、1977年に95歳で他界しました。したがって歴史上の人物であって、もちろん生で聴いたことはありません。少しクラシック音楽に詳しいかたなら、トスカニーニとかフルトヴェングラーとかいう歴史的大指揮者の名前をご存知かもしれませんが、彼らと同世代の「古い」指揮者です。私のストコフスキーとの出会いは高校3年のときにさかのぼります。高校3年のときにムソルグスキー(ラヴェル編)の「展覧会の絵」をやったのです。これは生涯で最も熱心に取り組んだ音楽だと思われます。あまりに思い入れが強すぎて、この曲についてはnoteでも書いたことがありません。この曲については、永遠に記事が書けない気がします。「展覧会の絵」は本来はピアノ曲であり、ラヴェルという「ボレロ」で有名な作曲家がオーケストラ用に編曲しているのです。もっぱらこの「ラヴェル編」が有名ですが、この「展覧会の絵」の他の編曲は、それこそ数えきれないほどあります(もうひとつ数えきれないほどあるものが「パガニーニの主題による変奏曲」です)。あの時代は、CDくらいしか聴くものはありませんでした。何気なくCD屋さんで買った「ストコフスキー編」の「展覧会の絵」を聴いてたまげたのがストコフスキーとの本格的な出会いでした。のちにベルリオーズの「幻想交響曲」のCDを買って、のめり込んだのが本格的にストコフスキーにハマるきっかけとなりました。ストコフスキーの私にとっての位置づけをひとことで言うならば「感性が非常に近い」ということになります。「好きなものに理由はない」と言ってもいいかもしれません。まもなく私は大学に進み、東京に行きました。東京では地方とは情報の差が大きく、東京のCD屋さんには地方にはないたくさんのストコフスキーのCDがありました。そんななかで、ブラームスの交響曲第1番に非常に感銘を受けた経験があります。ここで初めて明かすことがあります。私はこのときが「ブラームスのよさに目覚めた最初」なのです!なんと、高校で3年間もオーケストラをやっていながら、ブラームスのよさがわかっていなかったなんて!恥ずかしくて、46歳のいままで封印していましたが、ここで初めて正直に書きます。いまにして思えば、それまで聴いてきたブラームスは(生演奏も含めて)あまりに深刻で重々しかったのです。ストコフスキーのブラームスは、さっそうとしてテンポは速く、深刻ぶらないものでした。私はストコフスキーのおかげでブラームスのよさに目覚めたのでした。最近、同い年のヴァイオリンの友人(東大オケ関係ではまったくありません)が、発表会でブラームスのヴァイオリン・ソナタ第2番を演奏しました。はっきり書きますが、彼はブラームスの良さに目覚めていませんでした。「うまい・へた」を超えて、「その曲のよさがわかっているかどうか」というのは、聴いている人には手に取るようにわかるものです。これは音楽に限らず、たとえば数学の答案にしても、「解答者がいかに本質的にわかって書いているか」は採点者には手に取るようにわかるものであり(しかし残念ながらそれは点数には反映されにくいです)、「牧師がいかにその聖書の内容をわかって語っているか」というのも、その説教を聴けばすぐにわかるものです。とにかく「ブラームスのよさ」というものがあることは確かであり、それを私に教えてくれたのはストコフスキーの演奏でした。そんな恩人のストコフスキーの演奏を私はいまでも愛して聴いています。

 同じくらい長いこと好きな指揮者として、外山雄三(とやまゆうぞう)がいます。この人は1931年生まれで、今年(2021年)、90歳になり、いまでも元気で活躍中です。ストコフスキーも95歳まで現役で指揮をしていましたので、ぜひ外山雄三にももっと長生きしてもらいたいと思います(外山は作曲家でもありますが、今回はあくまで指揮者の話ですので、外山雄三も指揮者の面だけ書きます)。外山雄三はなにしろ現在でも現役の指揮者ですので、私も若いころはたくさん外山雄三の生を聴いたものです。最初のきっかけが次のいずれかがわかりません。すなわち私のフルートの先生はあるプロのオケで吹いていましたが、外山雄三が音楽監督だった時代があり、指揮者としての外山雄三の辣腕ぶりを高く評価していたことと、私が20歳のときに外山雄三の指揮する演奏会を聴いて感銘を受けたとき(1996年)の2つです。いずれにせよ、私にとって、ストコフスキーと並ぶ「長いことファンをしている」指揮者のひとりということになります。

 このストコフスキーと外山雄三は、タイプのかなり異なる指揮者です。まず、ストコフスキーの特徴から挙げていきます。

 先にも書きましたとおり、ストコフスキーはかなり古い世代の指揮者であり、その時代の録音を聴けば、世界のオーケストラは今よりずっと地方差があり、指揮者もいまよりずっと個性的で、同じ曲でも、聴いたときに受ける印象が、指揮者やオーケストラによってかなり異なります。そのなかでもストコフスキーはまたかなり個性的なほうだと世間では認識されていると思われます。有名な曲をひとつ挙げますとチャイコフスキーの交響曲第5番です。これはストコフスキーの「おはこ」であり、とくに1950年代くらいに「客演」(他のオーケストラをゲストとして招かれて指揮しに行くこと)するときによく持って行ったレパートリーなので、たくさんのライヴ録音が残っています。それを聴く限り、ストコフスキーは「やりたいほうだい」に聴こえます。実際、指揮者というのは、オーケストラに君臨するものであり、オーケストラの前で指揮棒を振り回して、オーケストラを自在に操る存在のようにお客さんには見えているようです。しかし、オーケストラの中でも演奏し、また指揮の経験もある私の感覚からすると、それは必ずしも正しい認識ではないと思います。たしかにストコフスキーのチャイコフスキーを聴くと、そうは思えず、指揮者のやりたいほうだいに聴こえます。しかし、ストコフスキーおっかけ四半世紀以上の私がよくよく聴いてみると以下のことがわかります。すなわち、ストコフスキーは、かなりオーケストラに自由にやらせているのです。オーケストラの自然の生理に逆らわず、うまくオーケストラを乗せて、オーケストラのひとりひとりに自由にやらせています。これが指揮者というもののコツなのです。「上に立つ人」のコツと言ってもいいかもしれません。うまい上司というものは、自分の要求を全面に出さず、部下に自由にやらせて、全体のパフォーマンスを上げるものです。ストコフスキーもそんな「じょうずな」指揮者のひとりで、うまくオーケストラに好きなようにやらせて、全体のパフォーマンスを上げるタイプの指揮者だったのです。同時代の指揮者の多くは「先生」タイプで、まだ「無知な」オーケストラ団員が多かった時代に「教養ある」指揮者が「教えてやる」という図式が多かったと思われますが、ストコフスキーはその時代にあって、かなり「現代的な」指揮者だったと言ってよいでしょう。それでいて結果として聴こえてくる音楽は「ストコフスキーのやりたいほうだい」に聴こえるのですから、これはもう奇跡的に「指揮」というものが向いている人の指揮なのです。指揮者のチェリビダッケがストコフスキーを「奇人変人大天才」と言ってほめていたと言われますが、まさにストコフスキーをひとことで言えばそうなります。指揮者の小林研一郎が「オーケストラのやりたいようにやらせて、全体としては指揮者のやりたいようになっている演奏が理想」というようなことを言っていたと思いますが、ストコフスキーはそれができている数少ない大指揮者だったことになります。現代ではこの傾向がどんどん著しくなり、指揮者は自分のカラーを出さずにオーケストラにやりたいようにやらせるタイプが多くなってきています。それは茂木大輔『交響録』などの本を読んでも如実に感じます(これはNHK交響楽団のオーボエ奏者で、指揮者でもある著者が、N響で出会った指揮者の思い出について書いている本です)。

 そういうわけで、とくに現代においては、「指揮者がオーケストラを意のままに操っている」のではなく、かなり自由にオーケストラが演奏しているのであって、指揮者はあくまで調整役のようなものなのです。私自身の経験を書きます。あるとき、ベートーヴェンの「エロイカ」(交響曲第3番「英雄」)を指揮する機会がありました。私は第2楽章の、ヘ短調で二重フーガが始まるところでテンポ・アップを試みました。それはスコアには書いてありませんが、ちょうどストコフスキーはそのような指揮をしており、それに深く共感していた私は、真似をしたのです。(ようするにアイデアのパクりです。)しかし、このアイデアは、団員の反発を買い、なくなりました。これは、この学生オケは、さんざんこの曲をさまざまな指揮者のもとでやらされてきており、指揮者ごとにやりかたが異なるのが受け入れられなかったというのが最も大きい原因だろうと思います。しかし、私は教師であり、彼らは生徒です。それでも、彼らオーケストラは言うことを聞かなかったのです。まして、プロのオーケストラともなれば、たとえばフルートにしても、そこに座っているのは、音大を優秀な成績で卒業し、留学歴やコンクール入賞歴なども豊富にある「フルートのプロ」であり、指揮者ごときがどうこう言えるくらいではない人であり、それがどの楽器でもそうなのです。それがオーケストラというものなのです。私のささやかな経験からしても、指揮者はオーケストラを意のままには扱えないものであり、それはプロのオーケストラともなればいかほどであろうかと思います。先ほども書きましたが、ストコフスキーの世代は、まだ指揮者といえば「先生」であり、オーケストラにもかなりの地方差があって、同じ曲でもかなり演奏家によって違いがあった時代です。日本で音楽評論(とくにレコード評論)の発達した時代はそのころであり、「指揮者によって演奏はかなり違う」という時代でした。加えて指揮者というものはオケの前で棒を振り回していていかにも「仕切っている」(指揮っている)ように見えるため、「スター」のように思えることもあり、嫌でも話題が指揮者中心になりがちだったのです。そして、21世紀の現代は、指揮者の個性がなくなったと言って嘆く人もいるのですが、ここまで私の文章をよくお読みくださったかたにはおわかりいただけます通り、それは時代の必然であり、世界はソ連の崩壊などを経験し、このグローバル化した時代のなかで、遠い国のオーケストラもYouTubeでいくらでも見られるようになって、ますます「指揮者による違い」「オーケストラによる違い」などというものはなくなってきました。(もちろんそれでも「いい演奏」というものはありますよ。私が言いたいのは、指揮者というものはそういう存在であり、決して「王様」ではない、ということが言いたいだけです。)

 そういうなかにあって、外山雄三は例外的に思えます。そういった、「迎合する」(いま悪い言葉を使いました)指揮者が多い現代において、外山雄三は数少ない「君臨する」タイプの指揮者だと思われます。それも、ストコフスキーとは違って、オーケストラの生理に反してでも、自分の思う通りにオーケストラを動かすタイプの指揮者であるようにも思えます。べつに外山雄三の指揮で演奏したことがあるわけでもありませんが、その極端な表現から、一端がうかがわれるようです。先ほどの茂木大輔『交響録』で、外山雄三は、すごく親切で優しい人物として描かれていますが、それは世間の見方にたいする「静かな反論」であるように私には思えます。それくらい、世間のオーケストラ・プレイヤー、なかんずく音大生が抱いている外山雄三のイメージは「おっかない指揮者」だからです。だいぶ前に私がインターネットで質問したときに答えてくれた人は元音大生であったようで、露骨な外山雄三への恨みを吐き出さずにはいられないようでした。その人いわく、あるホルンの学生が音を外したとき、外山雄三は「ここのホルンは副科が乗っているのですか?」と言ったそうです。「副科」というのは、本業の楽器はホルンではなく別の楽器だという意味で、「第2外国語」のようにホルンを吹いている学生ではないかという「嫌味」であり、その結果、そのホルンの学生は精神的ショックで単位を落としたそうです。それくらい「おっかない」「意地悪な」指揮者が外山雄三だというわけです。

 しかし、それは裏を返せば外山雄三の真の実力を表しているのであり、現在、これだけオーケストラに「君臨」できる指揮者はそう多くありません。先ほどから挙げている茂木大輔『交響録』によれば、外山雄三はN響とは密接な信頼関係があって、練習は非常に短時間で終わるというふうに書かれていました。これは、オーケストラの水準によって外山雄三は出方を変えているのかもしれません。たとえば私がnoteの記事で書いてきた外山雄三指揮、大阪交響楽団の一連のCDを聴いていて思うことですが、大阪交響楽団というオーケストラは、それほどうまいオーケストラとは思えません。失礼な書きかたをしましたが、CDを聴いての率直な感想はそうです。そして、外山雄三は、まさに厳しい指揮者に来てもらって、基礎から叩き直してもらおう!という意図で大阪交響楽団の指揮者として呼ばれたと考えられるからです。外山雄三は、大阪交響楽団に、「君臨」しています。このタイプの指揮者は、21世紀において珍しいと言えるでしょう。

 ストコフスキーが世界的大指揮者であるのにたいし、外山雄三は「国内的大指揮者」とでも言うべきもので、この外山タイプは、各国にひとりはいるのではないかという気もします。もう少し、世間で名の知られる「君臨型」指揮者を挙げると「ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル」や「セル指揮クリーヴランド管弦楽団」などがあります。いずれも、指揮者が絶対で、オーケストラをすみずみまでコントロールしないでは気がすまないタイプであり、いずれとも(もちろんCDでしか聴いたことはありませんが)、気持ち悪いほどオケがそろっており、まるで東大オケの異様な精緻ぶりを想起させます(少なくとも私には)。とくにレニングラード・フィルなどは、ロシアのシンクロナイズドスイミングが、人間業とは思えないほどそろっているのを連想させ、気持ち悪いほどそろっています。私は学生時代、このムラヴィンスキーとかセルとかは好きになれませんでした。こんな指揮者のもとで演奏はしたくないものです。(ムラヴィンスキーの得意な曲をひとつ挙げましょう。ベートーヴェンの交響曲第4番です。「一糸乱れぬ」とはこのことで、人間業とは思えないほどそろっています。)このタイプには、ほかにチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルというものがあり、私が学生時代にチェリビダッケは現役であり、しかも彼はかたくなに録音を拒絶していたので、海賊盤がたくさん出回っており、チェリビダッケの死後に遺族が正式盤を出したといういきさつもあります。チェリビダッケは先ほどストコフスキーを「奇人変人大天才」とほめたというエピソードを出しましたが、まさに自分とは正反対な指揮者をほめたことになります。

 そういうわけでして、私がこの小文で言いたかったことは、多くの人が思うほど指揮者というのはスターでもなければ君主でもなく、「オーケストラを自在に操っている」わけではない、ということです。どうぞ、人の上に立つ人は、部下を自分の言いなりにするよりは、やりたいようにやらせてください。それで最終的に自分の思うように組織が動く上司は、奇跡的に仕事ができる人だ、ということになると思います。

 そして、著作権(著作隣接権)保護期間の終了した古い音源をスマホの無料アプリで聴いている私は、その時代の演奏はどうしても個性的ですから、やはりストコフスキーを好んで聴くわけです。やっぱり指揮者中心に聴いているではないか!と言われますが、そうです。どうも最後の最後で自己矛盾みたいなのを犯している文章で申し訳ありません。私のフルートの先生に「(フランス流、ドイツ流といった)国による吹き方の違いはありますか?」と聞いたときに、先生は「ないようである。あるようでない」と答えました。それと同じように、指揮者による違いというものは、ないようである、あるようでない、と言うべきものです。この問題に簡単に結論は出ないのです。

 翌日の付記です。正確には当日の深夜の付記です。いまナクソス・ミュージック・ライブラリで、山田和樹指揮、仙台フィルによるラフマニノフの交響曲第2番を聴いています。そこに2019年にレビューを書いている人がいて、それが象徴的なので、ここにコピペします。

 レビュアー: 一燈照隅 投稿日:2019/01/29
山田和樹はとてもいい意味で普通の演奏をきちんとできる指揮者という印象を持っています。そういう彼がラフマニノフをどう演奏しているのだろうという興味を持って聴きましたが、その印象は変わりませんでした。とても堅実な演奏です。それも地方の仙台フィルからこのような演奏を引き出しているのは、相当なファンダメンタルを持っている指揮者なんだと実感するばかりでした。俯瞰するような客観的な立ち位置で、少しさめたような、でも、こんなに詩情にあふれるラフマニノフの2番は初めての体験です。こういうアプローチの仕方もあるんだと世界が少し広がった演奏です。

 以上ですが、こうではないですよというのがこの私の記事の言いたいことです。この文章は、あたかも山田和樹が仙台フィルからなにかを引き出しているかのような書きかたですが、そうではないです。これは仙台フィルの演奏です。指揮者である山田和樹は、ただの調整役です。しかし、客席にいる人には、こう見えているのですよね。それが手にとるようにわかるレビューだったので、思わず引用して付記しました。でも、こういうレビューはあちこちで見られるもので、珍しいものではありません。私は「音楽の友」や「レコード芸術」といった雑誌も見なくなって久しいですが、プロの音楽評論家も、いまでもこの調子の評論をしているのですかね?そして、もうひとつ、物語っているものがこのCDのジャケットです。指揮者の山田和樹が指揮している写真のアップです。オーケストラはいっさい写っておらず、指揮者だけのアップの写真です。このジャケットの作り方そのものが「指揮者中心主義」を物語っています。このCDを作った人たちも、こう作ったほうが売れると思っているからこういう作り方をするのでしょう。いまや、どのくらいの人が、この「指揮者幻想」を持っているのかわかりませんが、こういう「指揮者のアップ」のジャケットも少なくありません。演奏会チラシも同様です。ちなみに山田和樹さんはストコフスキーへのリスペクトを表明していますが、それはある番組で見ました。ストコフスキーがスイス・イタリア語放送管弦楽団に客演してチャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」を演奏している映像が流れました。しかし、こういう番組の作り方自体が、すでに「指揮者中心主義」に基づくもので、もうどうしようもなくこの観念は多くの人の頭のなかにあるのかもしれません。以上です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?