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「信仰」=「あつかましさ」説

 おはようございます。きょうの話題は、私が何回も書いてきている話なので、「…またその話かよ」と思われるかもしれませんが、あるかたから、改めてnoteに書いてはどうかと提案されましたので、書いてみようと思いました。

 パウロの手紙で、「信仰」(ピスティス)をどう翻訳するか、というお話は、講演会でも聴いたことがあります。私のような素人にはよくわかりませんが、「真実」と訳す?

 ところで、イエスが言っている「信仰」というのは、「あつかましさ」という意味ではないか、というのが、本日の私の「極論」(自己流の自説)です。よろしければお付き合いくださいませ。

 (ほんとうに、何度も書いたお話ばかりです。おゆるしください。)

 マルコ10:46-52、「盲人バルティマイをいやす」話(私からすると「盲人バルティマイがいやされる話」。私はすっかりバルティマイに感情移入してしまいますので)。バルティマイは、盲人の乞食です。目が見えず、道端に座って、道行く人に、お恵みをもらって生きてきた人なのです。(バルティマイに感情移入してお読みくださいね。)ナザレのイエスが通ると聞くと、彼は、叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」大声で、イエスに助けを求めたのです。しかし、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」と書いてあります。以前、奥田知志牧師と、みたらし加奈さんという女性の対談を見たことがあります。「なぜ『助けて』と言えないのか」という問いにたいしてみたらしさんは、「『助けて』と言っても、拒絶されることは多くある。そういう体験が重なると、人は『助けて』と言えなくなるのではないか」というようなことをおっしゃっていたと思います。(昨年12月に、一回だけ聴いた話です。記憶違いがありましたら、おゆるしください。)とにかく、バルティマイも、「助けて!」と叫んだら、多くの人々に叱りつけられて、黙らせられようとしたのです。やはり世間は厳しいのです。しかし、バルティマイは、それでほんとうに黙りませんでした。むしろ、「ますます叫び続けた」と書いてあります。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」と。(バルティマイ、あつかましい人ですね!)ついにイエスは立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と言いました。ついにイエスに呼ばれたバルティマイは、イエスからたずねられます。「何をしてほしいのか」。バルティマイは答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです!」。(バルティマイ、極めてあつかましいね!)しかし、バルティマイは、そのあつかましさゆえに、ほんとうに見えるようになるのです!イエスは言いました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。するとたちまちバルティマイは見えるようになるのですが、この「信仰」って何?「あなたの信仰があなたを救った」ってどういう意味?私は、「信仰」とは「あつかましさ」のことを指していると思います。「あなたのあつかましさが、あなたを救った」。(!)

 あとふたつだけ例を挙げます。いつも同じ例を挙げて恐縮です。マタイ15:21-28「カナンの女の信仰」。(なぜ並行記事のマルコを挙げないかと言ったら、こちらの話のほうが、より極端だから。ご都合主義で聖書の箇所を選んでいます笑。)カナンの女というのが出て来ます。娘は病気です。カナンの女は叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。(さっきのバルティマイと違うところは、カナンの女は、娘の病気をいやしてもらいたい。バルティマイは、自分をいやしてもらいたい。両方とも切実だと思います。自分のことも切実だし、自分にとって大切な人がたいへんなのも切実。)ところが、この叫びは、まったく無視されます。そして、弟子たちが言います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(繰り返しになりますが、イエスや弟子ではなく、カナンの女に感情移入してお読みくださいね。)イエスは言います。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。またカナンの女は断られました。それでも、カナンの女は、あつかましくし続けます。イエスの前に来てひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言います。まさに「助けて!」と言っています。イエスは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言います。断られています。それでも女は言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこでイエスは答えます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」そこで娘の病気はいやされるのですが、「あなたの信仰は立派だ」ってどういう意味ですか?また「信仰」という言葉が使われています。これはやはり、「信仰」ということは、イエスにとって、「あつかましさ」のことではないのか?と思う話です。

 最後の例にしますね。マルコ2:1-12「中風の人をいやす」。(私の感覚では、「中風の人がいやされる」という題のほうがしっくりきますけど。この話も、イエスというより、いやされる人の視点でお読みくださいね。)イエスが家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになりました。イエスが語っていると、四人の男が中風の人(身体麻痺の人)を運んで来ました。(主役は中風の人というより、「四人の男」であることにご注目ください。)しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろしました。そこで「イエスはその人たち(四人)の信仰を見て」と書いてあります。最終的にこの中風の人はいやされるのですが、ここで「信仰」という言葉が使われています。この四人のやっていることは、自分たちの仲間である中風の人のためにやっているのですが、度外れてあつかましいです。これも、「信仰」という言葉が「あつかましさ」という意味で使われている例のように思われます。

 結論です。少なくともイエスにとって、「信仰」って、「あつかましいこと」かもしれませんよ。あつかましい人が、そのあつかましさゆえに、いやされています。みなさん、「助けて!」って言いましょう!叱られても、黙らせられようとしても、無視されても、断られても、めげずに「あつかましくし続けた」人が、いやされています!あつかましい者勝ちです。甘えましょう!

 以上です!

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