差別の差別

 きょうは、差別にも差別がある、つまり、差別の差別というお話をしたいと思います。ただし、おもしろい話になるかどうかはわかりません…。

 玉木幸則さんと言われてわかりますか。私はこういうふうに説明します。「バリバラ」に出ている人で、「こーう、いーう、しゃべりーかたをー、するーひとー」。(玉木さんは、脳性麻痺で、言語障害がある。)私がこうやって玉木さんのしゃべりかたを真似すると、「障害者差別だ!」とお叱りを受ける可能性があるのですが、じゃあなんで私のこっけいな真似をするのは堂々と認められているの?玉木さんも障害者だけど、ぼくも障害者だよ?

 これは、差別の、差別ですね。

 私が教師であったころ、学校に、寺田ユースケ氏が講演に来ました。車いすの芸人さんでした。そのあと車いすホストになり(本を出した)、いまは車いすYouTuberか?よくわかりませんが、車いすを売りにしてがんばっておられる。障害者の仲間でもあるので応援したい気持ちはありますが、彼はちょっと下品である傾向は否めないですね。まあいいや。で、寺田さんが中学生の前で講演したのですが、「障害者ってどんな人?」と聞かれて、当てられた中学生が「すばらしい人」と答えたわけですね。なんとか寺田さんは、そういう見方をなくしたいと思っておられるようでしたが、その思わず出た「障害者=すばらしい人」という発言は、パラリンピックみたいなイメージですかね。24時間テレビみたいなイメージですかね。前にも書いたことで恐縮ですが、義足の友人は、障害は武器でしかなかったと言っている。これも、車いすや義足と、たとえば私のような発達障害とはちょっと違うのでありまして、空気の読めない、だらしのない、うろうろしていてデスクの散らかっている人は、「それが障害だ」とはわかってもらえないものです。内部障害の人もそうでしょうね。見た目にわかる障害とは違うのです。

 再び前にも書いたことで恐縮ですが、障害って、少数派のことで、世の中が(自然と)多数派むけにデザインされているので、少数派は苦労する、というそのことを「障害」と言っているわけです。私がいま滞在している町は、圧倒的な車社会で、きょうも片道2時間の神社に行ってきましたが、この炎天下、歩行者などはほとんどいません。マスクなんていらないくらいではないかと思うほどです。こういうところで、(障害特性により)車も自転車も運転できない私は「障害」です。この町は、「車で移動すること」を前提に回っているからです。

 どうも話が安定しなくて申し訳ございませんが、目くら、つんぼ、おし、びっこなどは差別用語とされ、「片手落ち」「足きり」と言っただけでも差別用語とされますが、私をからかったりバカにしたり排除したりするのはまったくやむ気配がなく、車いすの障害者や義足の人は「すばらしい人」と言われて気持ち悪いのかもしれませんけど、私はすばらしい人どころか、「困ったちゃん」ですよ。(結婚式のときに、私を「困ったちゃん」と言ったやつがいる。困ったちゃんと言うのは、周囲の人が困るという意味ですが、いまの私は、自分自身が困っている真の「困ったちゃん」です。)以上、差別の差別にかんするお話でした。

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