神の言いつけを守らないヨナの話は読みやすい

 旧約聖書にヨナという人が出てくるのをご存知ですか?神様にニネベに行けと言われたのにタルシシュ行きの船に乗って逃げ、大嵐になって海に投げ入れられ、大きな魚の腹のなかに3日3晩いた人物です。よく子どもたちの「聖書紙しばい」とかになっているという教会ではわりと有名な話です。旧約聖書の「預言書」のなかでは、例外的に「読みやすい」読み物です。新共同訳で4ページ、聖書協会共同訳では3ページの、短い預言書です。

 預言書と言いますと、旧約聖書の最後のほうにまとまって置かれている書の一群のことでして、以前、「エレミヤ書」を「支離滅裂」で「意味不明」と書いたことがありましたが、エレミヤ書に限らずたいがいは意味不明なことの多い書物ばかりです。首尾一貫していないとは言いません。ヨナ書の1つ前に「オバデヤ書」という、さらに短い預言書があります。新共同訳でも聖書協会共同訳でもたった2ページです。オバデヤ書は一貫しています。「エドムが憎い」。ただそれだけを言っております。しかし、やはりストーリー性はありませんし、あまり悪口ばかり読んでいてもそんなにうれしくはないです。

 これらも、時代背景などを勉強して読めば少しはわかるのかもしれないですが、私のようにただ読んでいるだけですと、なにがなんだかわからないものです。イザヤ書は列王記下とかぶっているところがありますので、その時代の人だな、とわかります。余談ですが、こういう聖書の「かぶり」を「並行記事」と言い、新約聖書では新共同訳でも聖書協会共同訳でも表題の下に「マタ〇〇」(マタイによる福音書の〇〇と並行)と書いてあり、便利です。しかし、なぜか旧約聖書ではやってくれないのです。ちょっと不親切だなあと思っております。フランシスコ会訳は旧約でもこれをやってくれていましたよ。余談は終わりです。とにかくきちんと勉強したらわかるのかもしれませんが、私にはわかりません。なぜ、預言書はそんなにわかりにくいのか。預言者は「言を預かる者」と書きます。神の言葉を預かってしゃべっているのです。だからわかりにくいのだ!ヨナは先述の通り、神から指令がくだったときに、逃げました。だからヨナ書は極端にわかりやすいのではないか。ここから導き出される結論は「神の言いつけに従わない人はまとも」ということであって、聖書としてはどうよということになるわけですが、どうも他の預言者を見ていると、現代なら何かの精神疾患を持っていると診断されたのではないかというほど、言うことがわけわからないです(精神疾患の人をディスっているわけではありません。私も統合失調症です)。いろいろな預言者がいます。幻を見る預言者としてはエゼキエルが代表格で、彼は冒頭からケバル川のほとりでなぞの幻を見ています。四つの生き物で、それぞれが四つの頭と四つの翼を持ち、車輪のなかに車輪があって、目で埋め尽くされているという、ちょっとどう想像したらよいか見当もつかない幻を見ています。枯れた骨の復活の幻を見る預言者もエゼキエルですね。彼の極めつけの幻は、エゼキエル書最後の「神殿の幻」であって、ひたすら細かい神殿の描写が何章も続き、早く終わってくれと願うばかりです。

 とにかくヨナ書は読みやすいです。内容もわかりやすい上、含蓄も深いです。そして、それは、神の言いつけを守らないほど彼がまともだったからではないかと思われるのです。預言者としては異例と言えましょう。

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