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「主にならって生きよう」?

 よく、キリスト教会では、「主にならって生きよう」とか、「イエスならどうしたろうか」とかいったことを聞きます。しかし、私はこれらの言葉に、なんとも言えない一抹の違和感を覚えて来ました。そのことについて、少し書きますね。

 つまり、私はイエスにならっているわけではない。私はイエスのようになれない。もし私がイエスのようであれば、十字架にかかって処刑されるであろう。私はむしろ、イエスに助けてもらって生きる人間だ。と、言葉にすれば、そのように感じて来たのです。

 盲人バルティマイが癒やされる話が聖書には出て来ます。私の記事をよくお読みのかたには、おなじみの話でしょうけれども、はじめてのかたもいらっしゃるかと思いまして、もう一度、書きますね。イエスによって、奇跡的に目が見えるようにしてもらえた盲人の乞食であるバルティマイの話です。これは、いま私が書いたとおり、バルティマイの話だと私は感じています。ところが、新共同訳聖書でも、聖書協会共同訳でも、この話の「表題」(聖書の本文ではなく、いわば聖書協会が「勝手に」つけているもの)には、「盲人バルティマイをいやす」と書いてあります。私だったら、「盲人バルティマイ、いやされる」と書くだろうなあ。「盲人バルティマイをいやす」と書いている時点で、イエス目線ではないか。それで、「もっとも小さくされた者の立場にたって」とか、キリスト教の偉い人ほどおっしゃる。司教とか。でも、それじゃ、だれもバルティマイの立場には立っていないではないか、と私は思ってしまいます。

 カナンの女の話もそうです。この話も私はひんぱんに出しますので「またか」と思うかたもいらっしゃるかもしれませんが、娘が病気で、必死でイエスに「お助けください」と言う女の話です。しかし、この女は、無視されたり、断られたりします(それでも食い下がって、最終的には娘はいやしてもらえるのですが)。これも、よく「どうしてこのときのイエスは、こんなに冷たかったのだろうか」というふうに読むかたが多いように感じます(そういう説教ばかり聴くので)。やはり、イエス目線でこの話をお読みになっている。それは、イエスだって、なんらかの事情はあるでしょう。断られることはあるのです。あるとき突然、親しかった人が連絡をくれなくなったり、なんてことは私たちもひんぱんに経験することではないでしょうか。(逆に自分も、連絡をくれた人にいつまでも返信をしないことはあり得るというか、やっていたりします。少なくとも私は…。)いずれにせよ、この話は、カナンの女のほうに感情移入して読まないと、聖書の言いたいことがちゃんと伝わらないような気がしています。

 話をもどしますが、私にとっては「主にならって生きよう」というよりは「バルティマイにならって(あつかましく)生きよう」というほうがより現実に近く、また「イエスならどうしたろうか」という問いも、「バルティマイならどうしたろうか」という問いのほうが、より現実に近いです。(ごめんなさいね、そうは読んでおられないかたを敵に回しているつもりはございません。私はそのように聖書を読んでいます、というだけのお話です。)イエスのようにはとても生きられない私ですが、せめてバルティマイにならって生きたいです。

 以上です!

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