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私の記事を読んで教会に行くと幻滅します

 キリスト教をあまりご存知ないかたがキリスト教とかクリスチャンというものについて思い浮かべるイメージというのは、もしかしたら、清廉潔白というか、善男善女のイメージかもしれません(その前に「宗教きもい」という反応があるでしょうが、それを越えた上でのイメージの話です)。「クリスチャンってとても清く正しい」というイメージを持たれているのかもしれません。しかし、実際のクリスチャン自身がよく知っているのは、教会って決してそんなところではなく、みにくい争いもたくさんあるし、ひどい人もいるし、そもそも自分もその「ひどい人」のひとりだし、ということだろうと思います。

 あるとき、ある牧師さんの部屋で飲む機会がありました。その牧師さんは、だんだん酔いがまわってきたころ、同席していたもうひとりの若い牧師に向かって「そろそろ浄土真宗に行くか」と言っていました。その気持ちはわかります。その牧師さんも、キリスト教の世界の嫌なところをたくさん見て来たのでしょう。私は口には出さなかったですけれども思っていたことがあります。「先生、浄土真宗の世界もけっこうひどいと思いますよ!」ごめんなさい、浄土真宗の悪口ではありません。ほかのところはよく見えるというだけの話です。おそらくどこにでも意地悪な人はいてどこにでも親切な人はいるのです。それはキリスト教でも仏教でも神社でも、宗教でなくても役所でも会社でも学校でもどこでもそうだろうと思います。

 実際に最近、ひどいお坊さんに会ったと言っているクリスチャンと話したことがあるのです。その人は「お坊さんって、清廉潔白なイメージがあったけれど、意地悪なお坊さんもいるものだね」とおっしゃっていました。でも、それは、キリスト教に清廉潔白なイメージを持っているクリスチャンでない人のイメージと同様なものだろうと思います。

 ですから、たとえばYouTubeですばらしい牧師の説教を聴いて「キリスト教ってすばらしいなあ!」と思ったとして、それで近所の教会に行ってみたらまず幻滅するでしょう。また、たとえば、たとえばですけど、私の記事をお読みになり「キリスト教ってすばらしいなあ!」と思われたとして、それで近所の教会などに入ってみたりしたり、聖書を買って読み始めたりしたら、まず幻滅するわけです。別に「教会には行かないでくださいね」とか「聖書は読まないでくださいね」と言いたいわけではないのですけど、教会も人間の組織である以上、「合う合わない」は必ずありますし、「当たり外れ」もありますし、聖書をやたらすすめてくる人がいるのも事実ですけど、聖書もいいことばかりが書いてあるわけではないですしね。

 とにかく「クリスチャンは人間的に立派な人だ」とお思いになるのは大きな誤解であり、それはクリスチャンほどよく知っている厳然たる事実です。これはおそらくどんな立派な教育理念をかかげている学校でもいじめはあるし、どんな立派に見える福祉施設でもろくでもない人がいるのと同様です。それは内部を知っている人には明らかなことです。クリスチャンでないかたでも、ご自分が所属する組織をよく思い出してみれば、このことは明らかなことではないでしょうか。

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