見出し画像

いちばん偉い者

学生時代、ある市民オーケストラに入っていました。「コンサートマスター(コンマス)」っておわかりになりますでしょうか。ヴァイオリンでいちばん「偉い」人です。演奏会の最初にみんなを座らせてチューニングをします。普通はいちばんうまい人がやります。しかし、そのオケのコンマスはそんなにうまくありませんでした。彼は「キャラがコンマス」でした。彼よりよほどうまい人たちが喜んで彼の後ろで弾いていました。彼自身も自分が「キャラでコンマスを務めている」ことはよくわかっていたでしょう。

ある別の教会の仲間があるとき家に来て「教会が船だとしたら、船長は誰か?」と言いました。私が「イエスさまでしょ?」というと、彼はあわてはじめました。どうやら彼の模範解答は「船長は牧師」だったらしいのです。私が「船長はイエスさま」という「もっと模範解答」を言ってしまったのでグダグダとなり、そのあとに続く「教会員は乗客ではなく乗組員だぞ!自覚を持て!」という話もなくなってしまいました。

それくらいに「教会では牧師が最も偉い」「つぎに役員が偉い(彼は役員でした)」「そのつぎに教会員が偉い」「つぎに教会員でないクリスチャンが偉い」「洗礼を受けていない人がいちばん偉くない」というのは暗黙のうちに多くの人が思っていることです。聖餐式(キリストの体であるパンを食べるという信者向けの儀式)にあずかれるのがそんなに偉いことなのかよくわかりませんが、とにかくそうなっております。

聖書を読んでおりますと、まず弟子というものは「だれがいちばん偉いか」という話をしょっちゅうしています。いつでもどこでもしています。はなはだしいのは最後の晩餐で「誰がイエスを裏切るのだろうか」という話の流れで「誰がいちばん偉いだろうか」という議論を始めるやつがいるということです。いかにもこっけいですけれど、実はわれわれも「主の弟子」なのであって、同様であるはずです。宮沢賢治の『どんぐりと山猫』のどんぐりのように、ずっと「誰がいちばん偉いか」ということを気にし続けているのです。

私はかつてあるキリスト教の私立中高の教員でした。「イエスさん」とあだ名される宗教部長がいました。聖書科の教員です(普通の学校でいう「道徳の先生」に当たります)。「イエスさん」というあだ名は「宗教的なことはぜんぶあなたに任せたよ」という意味と「あなた宗教的なことしかわからないでしょ?」という侮蔑した意味の両方のニュアンスが込められていました。イエスさんが修学旅行の引率責任者であったとき、朝食で若い教員が食べ散らかしていったお膳を、イエスさんは黙々と下げていました。(本物の)イエスは「いちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(新約聖書ルカによる福音書22章26節)と言いました。「イエスさん」は馬鹿にされながらもみんなに仕えていたのです。

「偉い」ってなんでしょうね。私は「東大を出ているから偉い」のか「失業しているから偉くない」のか。「誰が偉いのか」というのはみんながいつも気にしていることです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?