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「頼りにされている」と思えること

私は学生時代、いろいろな出身地の、いろいろな大学の学生が集う寮に住んでおりました。ある他大学の同輩で、ほとんど大学に通わず、ひたすらパチンコにのめり込んでいた仲間がいました。その彼が、あるときからパタッとパチンコをやめたと聞きました。彼と一緒に単発のバイトに行く機会があった私は、彼にそのわけを聞いてみました。彼は真顔で「あれは人間のやるものではない!」と言っていました。

彼によると、パチンコを極めた人間は、ついにパチンコの必勝法を見抜くそうです。そして、パチンコの必勝法を見抜くと、パチンコというものは「たんに時間をお金に換えているだけ」のものになるわけです。「あれはバイトだ。しかも社会の誰の役に立つこともないバイトなのだ!」と彼は言っていました。

私は今、あるホームページを作っていただいています。私が経済的に厳しいことをご存知であるそのかたたちは、破格で作ってくださっています。以下の私の意見は率直すぎて、そのかたたちの前では決して言えません(もしお読みになっておられたらごめんなさい!)。つまり、そのかたたちを動かしている動機は「腹ぺこさんのためにいいホームページを作りたい!」「腹ぺこさんに頼りにされている!」という気持ちではないかと思うのです。しかしこれはあらゆる仕事について言えることではないかということを、以下に別の例を出して書きますね。

われわれは、たとえば生協さんに食品を持ってきてもらっています。あるいは、下水の人に働いてもらって、トイレを流させてもらっています。こうしていろいろな人に頼って生きているのがわれわれの現実ですが、たとえばその下水で働くかたにしても、「自分が仕事をしなければみんなトイレもできないのだ。私は頼りにされている!」という思いが、給料を超えて、「仕事をするモチベーション」につながっているのではないでしょうか。これはあらゆる仕事について言える気がするのです。

教会というところは、初めて来た人にでも、礼拝後の「ご奉仕(教会での役割。仕事)」をさせるという文化があります。これはなかなかいい文化ではないかと思いますが、たとえば「そんなに困っている人にこんなご奉仕をしてもらうのは申し訳ない」と言って、「困っている人から奉仕を奪う」のは、かえって「酷」だと思っています。じつは困っている人ほど「自分は頼りにされている」という気持ちでどうにか信仰生活を送っているからです。「花に水をやる」ということさえ、困っている人にとっては生きるモチベーションにつながります。そう考えると、それほど「困っていない」教会員でも「私は役員をしています」「私は聖歌隊に入っています」「私は教会学校のスタッフをしています。先日も子どもたちの前でお話をしました」と自己紹介する人が多い理由もわかってきます。ダメ教会員である私には「…自慢か?」というふうに見えていましたが、それらは自慢ではなく、「私はこんなに頼りにされていて、充実した教会生活が送れています!」という「感謝の報告」なのです。

というわけで「人に頼る」ことも大事ですけど「人から頼りにされている」という気持ちが人をして生かしめるものであることははっきりしているようです。皆さんパチンコの必勝法を見破りたくてしようがないのかもしれませんが、いざパチンコの必勝法を見破ると、そのような「地獄」が待っていますよ!

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