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奥田知志著『いつか笑える日が来る』の最初の話について

先日、「土居健郎と奥田知志」という拙文を投稿して、奥田知志牧師ご本人にリツイートされたときはびっくりしましたが、本日は、奥田先生の近著『いつか笑える日が来る』のなかに出てくる最初の話「生きていれば、きっと笑える日が来る」について感じたことを書きます。奥田先生が、なぜこの話を、本の最初に持ってこられたのか、もわかる気がします。


 奥田先生は、東日本大震災のとき、ある集落の支援をします。そこの集落の代表のかたである、亀山さんという人が、「支援してもらえるのは、たいへんありがたいが、もらってばっかりは、重い」とおっしゃいます。私は、どちらかと言えば支援する側か、支援される側か、で言いますと、後者ですので、こういう話は、ごく自然に、(奥田先生でなく)亀山さんのほうに感情移入して読んでしまうのですが、これはすごい言葉です。「重い」。


 以下の話は、脱線のように見えて、伏線ですので、どうぞお付き合いください。
 人は、助け合って、支えあって、生きています。「支えるオンリー」もしくは「支えられるオンリー」という人はいません。「人」という字は、人と人が支えあっている様子を表している、と小学校の国語の時間に習った気がします。しかし、手書きの「人」という字を思い浮かべていただきたいのですが、手書きの「人」という字は、よく見ると、右の人のほうが、左の人よりも、より支えています。左の人は、より支えられています。もちろん、支えあっているには違いありませんけれども。
 ですから、「支えるオンリー」「支えられるオンリー」の人はいなくとも、「どちらかといえば支えるのが得意な人」「どちらかと言えば支えられるのが得意(?)な人」がいるのは確かだと思います。私はどちらかといえば後者です。もちろん、私が人を支えることもあるわけですが。


 さて、「支援してもらえることは、たいへんにありがたいが、ずっと、なにもかもやってもらいっぱなしだと、つらい(亀山さんの言葉では「重い」)」ということは、支援してもらいながら、すなわち、助けてもらいながら、しばしば感じる気持ちですが、この感情(?)を、言葉にするのは、非常に難しいことです。なぜなら、助けてもらう側は、ひたすら「ありがとうございます、すみません」としか、言いようがないからです。そこで、「助けてもらえることはありがたいが、助けてもらうばっかりだと「重い」」と、表現なさった亀山さんという人は、すごくえらいのです(次に、この言葉の意味をすぐに的確に理解なさった奥田牧師が、えらい笑)。


 
 さっき、脱線でなく伏線ですと言った話ですが、このように、「助けるオンリー」「助けられるオンリー」の関係になってしまうと、それはそれで、つらいのです。私のように、助けてもらうことのほうが多い人間としては、「助けられるオンリー」は、なかなか、みじめですしね。よく教会で、「あなたは、いる(存在する)だけで価値があるんですよ」と言っていただけることがあります。とてもありがたい言葉ですが、これも、この言葉だけですと、救われません。「自分もだれかの役に立っている!」という気持ちがないと、人間は生きていけないと思います。これを奥田先生は、「自己有用感」と書いておられます。


 このあと、奥田先生たちは、「相互多重型支援」ということを考えていかれますが、きょうのこの私の文章は、あくまで、1点にしぼり、亀山さんの「ありがたいが、重い」という気持ちを、亀山さんが言葉になさったのは、すごい、という話を強調したいと思います。


 世の中は、「助ける側」と「助けられる側」に分かれているわけではありません。私の信頼するある障害者支援のかた(私は発達障害です。いつもお世話になっています)もおっしゃっていましたが、自分たち(いわゆる健常者と言われる、支援する側)も、いつ、交通事故で頭を打って、知的障害になるかは、わからない、とおっしゃっていました。その人は、とても良心的な支援者なのです。
 私の知っているある学校の校長は、「きみたちは、困っている人を、助ける人になれ」とよく生徒たちに訓示していました。彼は、暗黙のうちに「きみたちは、助ける側だ。決して、助けられる側になってはいけない!」と言っているようでした。これはいけないと思います。だれだって助けられる側になるのに!(だからみんな、「助けてください」って言えない人に育っちゃうんだと思うよ!助けてもらうのは、恥だというか、甘えだというか、ね。)残念ながら、これが世の教師の多くでしょう。(もっとも、大学進学実績しか言わない校長よりは、だいぶましですが。)
 とにかく、きょうのこの文章で私が言いたかったことは、その気持ちを言葉にした亀山さんはすごい、ということと、その亀山さんのおっしゃる意味を的確に理解した奥田牧師もすごい、という話です。


 奥田牧師が、この話を、この本の冒頭に持ってきた理由が、わかる気がします。
 とっても、大事な話なのです。

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