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たまにはいいこと言ったかも

 2015年の「第1回ダウン」のころ、田川建三『新約聖書 訳と註 ヨハネ福音書』を読みました。おもしろくておもしろくて、1か月か2か月かで、一気に読み終えてしまいました。みなさんは、聖書の「ヨハネによる福音書」というものをご存じでしょうか。とても神秘的なイエス伝なのですが、なんというか、とてもいいことが書いてあったかと思うと、とてもいやらしいことが書いてあったりして、なんともとらえづらい福音書です。田川建三は、複数著者説に基づいて、この本を書いています。つまり、原著者がいて(まともな人)、それにたいしてまったく方向性の異なる編集者(いやらしい人)があちこちで加筆・編集しているという説です。私にはわかり得ませんが、それは、ギリシア語の語彙や文体からも裏付けられるそうです。とにかく、長年のなぞが解けていくというか、快刀乱麻を断つように、ばっさばっさと切っていくその姿勢は痛快そのもの、たいへんたのしく読んでしまいました。そののち、私は一時期、司書をしていた時期がありますが、もしも自分がビブリオバトルに出るなら、この本で出るぞ!と思うくらい、この本の魅力を語れるという、そういう本でした。

 以下のようなことがあります。ちょっと政治的な話題になりますので、最初にお断りしておきますと、私は、前総理大臣の安倍さんの政治を良いとは思っておらず、周囲もそういう人が圧倒的でした。そのことを最初にお断りしてから、本題に入りたいと思います。

 あまりにも安倍さんのよろしくない政治が続くので、私の周囲の人は、安倍さんの悪口ばかり、もう、安倍さんのやることなすこと言うこと、すべて罵倒されていました。そんななか、ある私の友人が言いました。たまには安倍さんもいいことを言うんじゃないの?もちろん、彼も安倍さんの政策には反対でした。でも、そう言ったのです。たまには安倍さんも、いいことを言うのじゃないか。これは、私にとって非常に印象に残る言葉でした。それは、以下のような経験があるからです。

 私は、少なくとも職場では、「徹底したダメ人間」でした。みんな(とくに要職についている偉い人たち)は、私を、人間のくずというか、給料どろぼうというか、とにかくダメなやつと見ていました。そして、そういう認識が高まるとどうなるか。私の、やることなすこと言うこと、すべて、悪くとられるのです。私のやったことは、すべて悪くとられました。よいことをやったときでさえ、無視されるか、むしろ逆に悪くとられるか。ずいぶんいわれのないことで叱責を受けたものです。あるいは、私の発言。「あいつ(私)が言ったことだ」というだけで、却下されました。みなさんも、経験がおありではないかと思いますが、会議って、しばしば、「なにを言ったか」ではなく「誰が言ったか」で話が通りますよね。仕事にしても、なにをやったかではなく、誰がやったかで評価されますよね。私の言ったことは、「あいつ(私)の発言だ」というだけで、却下の対象となりました。図書館でも、私の推薦した本はことごとく落とされるようになりました(「あいつ(私)が推薦した」という理由で、です)。もちろん、意識的な人(意地悪な人)もいたでしょうが、多くは無意識的です。でもバイアスがかかっているのです。叱責を受けるときも、しばしば、くそみそに言われ、ぬれぎぬもありました。10叱られているうち、9は私の責任でも、1はぬれぎぬなのです。しかし、私はその「1の正しさ」は主張できませんでした。もちろん、9も私が悪いので、ただ1だけの正しさを主張しようものなら、もっと叱責されることは目に見えているからです(小さいころから、私はそういう経験をたくさんしてきています)。ようするに、「私だってたまにはいいことを言うし、いいことをやる」のです。しかし、私の周囲の評価があまりにも低いため、私のやることなすこと言うことは、「すべて悪いこと」と取られてしまうのです。「私があなたの上司なら、あなたを迫害しないよ」と言ってくれる親切な人も(職場以外で)いたりしますが、私は信用できません。なぜなら、私と同じ職場で働いている人なら、ほとんどは私の迫害者となるからです。さきほどの、「安倍さんもたまにはいいことを言うかもしれない」と言った友人はまた、私に向かって、「もしあなたがぼくの仕事上の同僚だったら、ぼくもあなたを迫害していると思う」と言いました。私は、彼のことは信頼できました。ほんとうに私のことをよく見ていてくれていると思いました。私の苦しみをも知ってくれている友人でした。この文章を、共感をもってお読みくださっているあなたさまも、もし、私の仕事上の同僚か上司であるなら、きっと私を迫害なさっていると思います!

 というわけで、田川建三のヨハネ福音書に戻りますが、ヨハネ福音書の編集者って、そんなに「いやらしい人」なのでしょうか。言うことなすこと、悪いことばかりなのでしょうか。たまには、いいことも言ったりするのではないの?もちろん、安倍さんは、えげつなかったですよ。ひどかったですよ。「桜を見る会」ひとつとっても、疑惑だらけではないですか。それと同じくらい、ヨハネ福音書に加筆をしたやつは、えげつないです。原著者の言葉とは正反対の、えげつない言葉を書いていきます。しかし、人って、「いいばかり」「悪いばかり」でできているのではなく、もろもろトータルで人間なんではないのですか。そして、いったんレッテルをはられると、やることなすこと悪い人、ととられますけれど、それは、安倍さんも、私も、ヨハネ福音書の編集者も同じです。そもそも聖書って、いいことも悪いことも書いてある、そしてそれらは不可分の、「人間」みたいな書物なので(意味のあること、いいことばかり書いてあるわけでもなく、つまらないこともたくさん書いてあるし、ひどいこともときどき平気で書いてある)、でも、悪いところばかり見ていたら、人間づきあいはできないのと同様、聖書とも、そういう付き合いをすべきなのではないか、という思いに至っています。

 以上です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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