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言(ことば)が肉となった

 マルセル・モイーズという「フルートの神様」がいまして、そのモイーズの戦前の録音をつぎつぎに聴かせるというラジオ番組をだいぶ前にやっていました。興味深い録音がたくさん紹介されていましたが、いまならYouTubeなどでいくらでも聴くことができる音源でしょう。その時代はそういうものがありませんでしたから、貴重な機会でした。そのMCとして、故・吉田雅夫(よしだ・まさお)という日本のフルート界の第一人者がしゃべっていたのです。お世辞にもうまいトークであるとは言えませんでした。ではなぜ、ラジオ局は、しゃべりのへたな吉田雅夫にしゃべらせたか。これは理由が明らかでありまして、吉田雅夫はモイーズを直接よく知っており、なによりモイーズをものすごく尊敬しているからです。しきりに「モイーズ先生、モイーズ先生」と言っていました。そういう人の言葉は重みが違うのです。しゃべりがへただとかそういうレヴェルではなく、生きた証言として、ラジオ局は吉田雅夫に語らせたのでしょう。

 以下に、生活保護の経験とそこから脱出したかたの記事をはらせていただきます。私はとても感動いたしましたので、無理のない範囲で結構ですからよろしければお読みくださいね。私がここに要約を書くよりはるかに説得力がありますから!じつは、そのことが言いたくて、この記事を紹介するのです。経験なさったことが、言葉に重みを持たせているのです。生活保護を受けるほどご自分が困っているという認識がなかった点などは、いかにも経験者でないと語れないような重みがあります。


 こういうのを「言(ことば)が肉となった」と言うと思います。これは新約聖書ヨハネによる福音書1章14節の言葉ですが、言葉に実感がこもっているというか、「肉」によって裏付けがあるのです。ある伝道師は、あまりに説教するネタがなくて、本を読んだそばからしゃべるよりなかったようです。「食べながら排泄しているようだった」と言っていました。それは「未消化」というべきでしょう。

 私にとっての聖書も、そのような本です。もっとも、すべての聖書の言葉がそうではありません。ごく一部の言葉なのですが、実感を伴って感じられるようになってくる言葉があるのです。まさにさっきの「言が肉となった」という表現の意味するところを私なりにとらえたのもそれでしょう(もっともこれは多くの人がそうとらえている例ですが)。自分が困るような立場になって、いっそう聖書は身近なものになったと思います。「聖書とは、困っている人が、神と人とにもう少しあつかましくすべきであることを言っている本のことである」というのは、私の実感となっています。

 私は小笠原諸島の父島で間近にくじらを見たことがあります。くじらはものすごく大きかったです。「くじらは大きい」という言葉は幼稚園生でも言えるでしょうが、私が言う「くじらは大きい」という言葉には重みがあります。

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