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自分で自分のことを書くことの難しさ

 先日、友人の伊藤牧師(仮名)から、著書の校正の依頼をいただきました。伊藤牧師の3年前の本の2刷(「にずり」と読みます。でも「にさつ」と読んでもいいらしいですね。いま検索しました)が出ることになったそうで、校正をしてほしいということでした。私はある出版社のかたからも「天才的な校正能力」と言われています。最後にココナラのリンクをはりますので、どうぞお気軽にご利用くださいね。「迅速に、かつ正確に」をモットーにしています!

 さて、伊藤牧師とは、その本を最初に読んだころは知らない仲でしたが、もろもろあっていまは仲良しです。それであらためてその本を読んで、その本の致命的な欠点に気づきました。それは「伊藤牧師が伊藤牧師について書いた本だ」ということでした。

 自分で自分のことを書くことは難しいのです。私はその校正もはじめ、算数・数学の個人指導など、いくつかのサイドビジネスを考えていますが、いずれもプロフィールは基本的に他人様に書いてもらっています。最初に算数・数学の個人指導のサイトを作ってくれると言ってくれた友人は「プロフィールはお前自身が書いちゃダメだ、オレが書く!」と言ってくれたものです。結局、彼は忙しすぎてホームページを作ることはできませんでしたが、私の基本的な姿勢「自分のプロフィールは自分では書かない」というものが定まったのでした。

 親鸞自身の書いた『教行信証』は極めて難しいことで知られる本です。私も学生時代にトライして挫折しました。『教行信証』は「教」と「行」と「信」と「証」から成り立っているから「教行信証」というのだということと、そしてその4つの部分は分量にかなりのかたよりがあることくらいしかわかりませんでした。(ごめんなさい。記事を書き終えてから検索してみたら、どうやらあと2つの章があって6章から成る本らしいです。)しかし親鸞の弟子の唯円が書いた『歎異抄』はだいぶ読みやすい本です。後者は、親鸞の他力本願の発想をよく伝える名著です。やはり、本人が書いたものよりも他人が書いたもののほうがよいという例です。

 これはキリスト教もそうで、「イエスによる福音書」は存在しないわけです。福音書(ふくいんしょ。「イエスの伝記」)を書いたのは、マタイであり、マルコであり、ルカであり、ヨハネです。昔は「マタイ伝」「マルコ伝」とか言ったものです。(もちろん「マタイの伝記」という意味ではなく「マタイによる福音書」という意味です。)弟子の書いたものが残されて聖書に載っているわけです。親鸞と違ってイエスは自分では何も書き残さなかったのですが、「イエスによる福音書」が残っていたら、意外とダメな本だったかも?

 というようなことを、伊藤牧師の本の校正をして思ったわけです。その本は、伊藤牧師の魅力の何分の一かしか伝えていませんでした。伊藤牧師と知り合いになり、伊藤牧師と会って話したときの抜群のおもしろさを知る者として「この本はちょっと欠陥があるなあ」と思いながら読んだというお話でした。

 以上です。最後に私のココナラ4つ(「校正」「エクセルのマクロを書きます」「採譜」「鼻歌を歌ってくださったら適切な和音をつけます」)と、「算数・数学の個人指導」のリンクをはりますね。









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