見出し画像

明解な人は明解に間違う

 「明解」(めいかい)という言葉はどうも大学院の数学のセミナーでしか聞いたことがないような気がします。ほかに表しようのない言葉なので、独自の「明解」という表現をするのだと思いますが、なんとか大学院数学をご存知ない多くのかたにこの言葉の意味を伝えようと努力しますと「論旨がはっきりしている、言いたいことがはっきりしている、論理的に破綻がなく、不明なところがない」といったところでしょうか。これで通じますか?私は大学院生のころ「明解な発表をする」ことで有名でした。(自慢になっていますがどうぞおゆるしください。)ところが中高の教員になったとたんに私は「わかりにくい授業」で有名になってしまい、ひたすらダメ教員になってしまいました。とてもつらかったです。あるとき、教務部長(いま校長)にこの話をえんえんと聞いてもらい「その『明解路線』は、やめるんだな」と諭されたことがあります。どうやら、中高の授業で「明解」であることは、まったく役に立たないばかりか、有害なものだったようです。(もう少しレヴェルの高い学校だったらまた違ったかもしれませんが。)

 しかし「明解」は数学だけに限ったものではありません。音楽の演奏にも「明解」かどうかはあり、スピーチや、こういうブログの記事にも「明解」かどうかはあります。牧師の説教にも「明解かどうか」はあります。つまり、言いたいことのはっきりした、論旨のはっきりした説教です。そして、明解な人は、間違うときも明解に間違います。明解でない人は、なにを言っているのかわからないので、「間違っているのかどうか」もはっきりしないのです。論旨のはっきりしている人は、間違うときも「はっきり」間違うのです。

 具体例がなかなか出なくてすみません。奥田知志牧師の新刊で『ユダよ、帰れ コロナの時代に聖書を読む』という説教集があります。2020年の4月から7月にかけて教会で語られた説教(宗教的説話)の書籍化です。奥田牧師の説教は、極めて明解です。そして、以下のようなことがあります。数学というものは「正しい」「間違っている」というのがはっきりした学問ですので、牧師の説教で「間違っている」という言いかたはなじみませんが、この本の最初のほうで奥田牧師はいかりや長介の言葉を借りて「つぎいってみよう」と言っています。しかし、本の途中で奥田さんは若松英輔さんから「宿題を終わらさなければ簡単につぎに行けないのではないか」と言われて考えを改めたようで、本の途中から「簡単にはつぎにはいけない」という主張に変わっていきます。ひとつの本のなかで途中から主張が変わった!もちろん、人は変わりませんから、奥田さんの言いたかったことが、急に変わったわけではなく、本全体としては首尾一貫しているのですが、こういう細かい点にかんして言えば、「論旨がはっきりした」「明解な」人の話は、このような「主張の変更」があってもあくまではっきりしているのだ、という例のつもりで出しました。

 というわけで、明解な人は明解に間違います。逆に言えば、論旨のはっきりしない人は、間違いさえもはっきりわからないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?