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奥田知志牧師宣教「イエス・キリスト倍返し」の感想

 2020年10月18日の奥田知志牧師の宣教「イエス・キリスト倍返し―ただ夢が叶えばよかった。そんな私が使命に生きる」(YouTubeにあります。リンクのはりかたがわからず、すみません)の感想を書きます。もう3か月以上も前のメッセージですが、やはり、ひとこと言いたい。いや、ひとことではない。

 最初に確認しておきますが、私はこの宣教(説教)に反対ではありません。大いに共感して聴きました。しかし、そのうえで、あえて言いたいことがあるのです。

 まずは、聖書の箇所を挙げておきます。ルカによる福音書18章35節以下。口語訳聖書です。

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。

 奥田牧師の説教は、50分ちかくかかる長いものですので、そう簡単に要約はできません。でも、あえて私なりに要約すると以下のようです。すなわち、この盲人の物ごいは、イエスによって見えるようになった。見えるようになるのが彼の夢だった。目が見えるようになったら、仕事に就いて、お金をかせいで、お金をためて、家を建てて、結婚もしたいなあ…とか思っていたかもしれない。しかし、彼は、目が見えるようになって、彼はイエスに従って行った。イエスと出会って、使命に生きるようになった。夢がかなうなら、それはご利益宗教に過ぎない。イエスと出会うということは、使命に生きるようになるということだ。とまあ、そんな趣旨の説教だったのです。奥田先生、おかしな要約だったら、ごめんなさいね。

 とてもいい説教でした。何回も再生しています。気に入りました。しかし、やっぱり思うんですよ。この聖書の話の最大のポイントは、「目の見えない人が、イエスによって見えるようになった」ということではないかと。

 きのうも書きましたね。またリンクがはれなくてすみませんが、「ショートメッセージ:「ナルドの香油」」という記事です。「ナルドの香油」の話は、よく考えるとどうということのない話で、ただ、つぼを割って、においがしただけの話です。それだけとは言えないというのがきのうの私の記事でしたが、とにかく、今日の聖書の話のような、「目の見えない人が見えるようになった話」は、もうとてつもないすごい話です。イエスによって盲人が見えるようになる話は、福音書に何回も出てくるのですが、たとえば、ヨハネによる福音書の9章32節では、「生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません」(口語訳。きょうはすべて口語訳でいきます)と、元盲人が言っています。これは古代の人の迷信などではなく、二千年前の当時から「信じられないくらいすごい」ことだったのです。でしょ?

 奥田先生は、「もし、『目が見える』というご利益の話だったら、『彼は家に帰って幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし』となっているはずだ」と言っています。しかし、イエスによって奇跡的に病気や障害が癒やされた人って、けっこう、家に帰っているのです。せっかくなので、同じルカから引用しますと、中風の人(体のまひした人)が癒やされる場面では、「すると病人は即座にみんなの前で起きあがり、寝ていた床を取りあげて、神をあがめながら家に帰って行った」(ルカ5:25)と書いてあり、家に帰っています。また、ゲラサの悪霊(あくれい)を追い出してもらった人はというと「悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった、「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」」(ルカ8:38-39)と書いてあって、なんと、ついていきたいと言ったにもかかわらず、家に帰されています。みんながみんな、今回の話の盲人のように、ついていったわけではない。

 それから、奥田先生は、最後に、「これを見て、人々はみな神をさんびした」と書いてあるのは、さっきまで「彼をしかって黙らせようとした」人たちであって、盲人がさけんだときに、「うるさい、黙れ!」と言っていた人が、この一連のやり取りを見て、「神をさんびした」のだとおっしゃっていましたが、これも違うと思います。そんなに簡単に人は変わらない。しかったのとさんびしたのは、別の人たちに思えてならないのですが、いかがですか?

 それに、「目が見えるようになるのが彼の夢だった」というのも、違う気がします。そもそも、さきほどもヨハネを引用しましたが、目が見えない人が見えるようになる話なんて、世界が始まって以来、聞いたこともない話であって、そもそもその盲人は、自分の目が見えるようになる可能性なんて、カケラも思ってなかったろうと思うのです。だから、そもそも「見えるようになるのが彼の夢だった」というのがありえない話なら、「ただ夢が叶えばよかった。そんな私が使命に生きる」(説教題)というのは、そもそも成立しない説教になってしまいます。

 とにかく、私はこの話は、「ご利益」の話に思えてなりません。浅い信仰ですみませんね。でも、目の見えない人が見えるって、どれだけの希望でしょうか。自分の願いを素直に神にぶつけていいではないですか。そして、かなったら、家に帰ってもいいではないですか。彼は従って行ったけどね。帰った人もいっぱいいる。ご利益宗教のなにがいけないんですか。苦しいときは、「苦しい!」と言い、「助けて!」と言い、助けてもらったらいいし、あつかましくして、甘えたらいいし、それでイエスは「救い主」って言われているのだし、もうイエスさまにはいっくら甘えてもいいんじゃないの。

 とは書きましたが、リアルの友だちで、この話を分かち合おうと思っても、そもそも前提がかみあわない人も多かったし、あらためて、奥田先生のこのお話はよかったなあと思っております。いろいろ反論をしたように見えますが、基本的に、私はこの宣教に賛同しています。

 「自分の思いではなく神の思い」というテーマが一貫して奥田牧師のなかに流れています。しかしいっぽうで私の思っている「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(ルカ11:9)というテーマがあります。決して対立するテーマだとは思いませんが、そもそも「ご利益宗教」って、キリスト教が他の宗教をバカにするときに使いがちな言葉ですしね。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)というイエスの祈りも、私には、「どうぞ杯を取りのけてください」と祈ったり、「わたしの思いではなく、みこころが成りますように」と祈ったり、ゆれているところだと思いますし。奥田牧師の「今日、祈りとは何か」という連載が、今月頭(2021年1月)から続いていて、まだ完結していませんが(またもリンクをはれなくてすみません)、私はやはり奥田牧師に共感しつつ、自分の思いが成るのも祈りだと思ってしまいますしね。それに、私だって、人生は思い通りにいかないことの連続だっていうことくらい、知っていますよ!!でも、だからこそ、目が見えない人が見えるようになった話は、希望なのではないですか。「願いがかなう」って、希望です。「かなわないことを受け入れる」っていうことも大事なのはわかります。でも、「思っていること」が「かなう」から、「夢がかなう」っていうんでしょ。いやむしろ、この盲人は、まさか自分の目が見えるようになるとは思っていなかったでしょう。この物語は、希望の物語なのです。なぜ、福音書が、繰り返し、繰り返し、病や障害で苦しむ人が、イエスによって、奇跡的に癒やされる話を記すのか。それは、希望の話だから。私も、発達障害、精神障害、睡眠障害、ついでに色覚障害だからわかる、これは希望の話なのだ!ご利益宗教のなにがいけない!笑

 以上です!だらだらした文章でごめんなさいね。みなさんは、どっちを大切になさいますか。自分の願いがかなう希望と、自分の願いがかなわないことを受け入れる信仰と。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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