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未解決問題「必要とされてないやつは死ね」

 前にも書いたことのあることで恐縮ですが、こう、なにもかも人様にやってもらってばかりで、何の役にも立っていなかったら、つらいものがあります。何か、自分が社会のなにかに役に立っているという実感がなかったら、生きていけないのです。

 学生時代、学校の便所の落書きに書いてありました。「人は何のために生きるのか」。(当時はインターネットなどなく、便所の落書きが掲示板みたいな役割も果たしていました。いまは知りません。)いろいろな人がいろいろな返事を書いていましたが、私には(小さく書いてあった)「生まれちゃったから生きるんじゃない?」という返事に最も納得しました。そして、印象的だった答えが「必要としてくれる人がいるから」という答え。そしてそいつは続けて「誰からも必要とされていないやつは死ね」と書いていました。なるほど、論理的に首尾一貫している。さすが東大生(?)。なんとなく冷たいものを感じながらトイレを去りました。

 最近、ある親しかった年上の友人が自死で亡くなっていたことを、共通の知人から知りました。亡くなったのは昨年(2020年)の11月で、半年以上前です。知らなかった。しかも、亡くなったことを知っている人は多いようですが、自死であることを知っている人は少ないようです。

 その共通の知人から聞くところによると、直接の原因は、コロナ流行によるリモート的な仕事が増えたこと。その友人は、リモート的な仕事が苦手だったらしい。でもそんなことで自殺するとは思えぬほど、明るい人だったと思っていたのに。自殺の原因なんて、本人にしかわからないものですから、われわれがいくら、ああだろう、こうだろうと言ってもなにもわかりませんが、しかし話を聞くと、自分の社会での存在意義が感じられない、と常々おっしゃっていたということ。だれからも必要とされていないということ。(そしてその友人は、独身で子どももいなくて、親を2年くらい前に亡くしておられた。つねに独りぼっちだったのかもしれず。まあですから何を言ってもわれわれにはわかりませんが。)

 それくらい、誰かの役に立っていないと、われわれは生きるのが困難なのです。
 
 しかし、この話とは別に、以下はあるぜんぜん別の友人としゃべったときの話になります。

 私が「誰の役にも立っていないことはつらい」と言いますと、その友人は言うのです(その人は、かなりガチのクリスチャンです)。「もしも芯からクリスチャン的な発想に染まった人がいるなら、その人は、自分が世の中の役に立たなくても、生きていけるはず」みたいなことを言うのです。そりゃおっしゃることはわかりますよ。確かに世の中の役に立っていなくても、自分は生きる意味のある命だと思えることは大切だし、教会でも「あなたはそのままで神様の大切な子どもですよ」なんていう言葉はよく聞くフレーズかもしれない。しかし、私が、「自分はなんの役にも立っていない」と感じて、生きるモチベーションを見失いがちなときに、その人から「それはあなたの信仰が足りないせいだ」とは言われたくないものだ。(その人の批判をしているわけではありません。その人は、私より純粋なクリスチャンなのです。でもその人だって、ひたすらみんなからお世話されるばかりで自分が何の役にも立たなかったら、つらいだろうと思うのだけど。)

 (ちなみに、その自殺なさった友人というかたも、クリスチャンであられました。ほとんど宗教の話はしない仲でしたけど。でも、それこそキリスト教的に「自殺は罪である」などと言うのは、その人を裁いていることにしかならないので、そんなことは思わないです。そのかたは、おそらく今ごろ天国で、イエスさまのところで、あらゆる苦しみから解き放たれて楽しく過ごしておいでであると信じます。)

 そこで最初の問いに戻りますが、誰からも必要とされていない人は「死ね」なのか?便所の落書きによるとそうですけど、あれは冷たい。たしかに、そのクリスチャンの友人の言う通り、「あなたはいるだけで価値があるのですよ、なんの役にも立っていなくても価値があるのですよ」という「教会の」メッセージのほうが重みがある。役に立っている人は生きる価値があって、なんの役にも立っていない人は生きる価値なし、というのでは、ひどすぎると思います。しかし、しかし、私は、自分が何の役にも立っていなかったら(正確に言うと、自分がなにかのお役に立てているという実感がもてなかったら)、生きるモチベーションを見失うのです。

 これは未解決問題だね!堂々巡りだ!

 たとえば、苦しんでいる人を見て、「そんなことで苦しまなくていいのに」ということを言うのは簡単な場合がありますが、それが本人にとって苦しみの軽減になるかというと、必ずしもそうは言えない。それどころか、「あんたそんなことで苦しんでいるの。バカではないの?」と言うふうに響く場合もあるのだ。私は両方の経験があります。多くの人も、両方の経験がおありではないでしょうか。

 だから、この記事は、結論は出ません。あるとき、中学生に数学を教えているボランティアの人に、(ツイッターの質問箱で。つまり、匿名で質問したということですが、)「三面体というものは存在しないことを、どうやって中学生に納得させますか?」みたいに質問したのですが、そのかたのお答えは「どうして納得させなければならないのですか?いっしょに考えればいいのに」というもので、大いに反省させられたことがあります。私は悪い意味での「教師根性」を発揮してしまった。すでに答えがあって「納得させる」のではなく、「なぜだろう」ということを、ともに悩む。それはとても大切なことです。かんたんに答えは出ないので、苦しいですが、「答えが出る」ことばかりに価値を置いた社会はゆがんでいると思います。というわけで、この記事は、答えナシ。ここで終わります。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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