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わけ合えばあまる

 私は、5月から、仕事を休んでいます。もう、半年以上、仕事を休んでいます。この間、さまざまなトライをしました。しかし、うまくいきません。

 しかしながら、私は、浮き沈みはあるものの、この半年を、どうにか、落ち込み過ぎずに、過ごすことができています。あるかたは、私のこの状態を、「奇跡」とおっしゃいました。6月から7月にかけては、「採譜(耳コピ)」で食えるのではないかと、真剣にその道を探りました。いろいろな道を探りました。7月の下旬から、こうして、noteを始めて、執筆活動も続けています。9月には、まる4週間、違う町へひとりで行って、たくさんの奇跡を体験してきました。そのころのnoteをお読みのかたなら、覚えておられると思います。(ご覧になっていないかたには、ご一読をおすすめいたします。いちばんのオススメは、「日頃の行い」ですね。リンクのはりかたがわからず、申し訳ございません。)

 なぜ、私がこんなに落ち込まずに前を向いて歩むことができているのか。だんだんわかってきました。私、自分のためにnoteをやっているんじゃないのですよ。読んで、励ましを受けておられるかたがいらっしゃる。そういう人を念頭に置いて、書いている。それが、はねかえって、私自身の力になっているのです。

 本田哲郎神父の本に出て来たたとえ話です。もう余命いくばくもない友人を見舞うことになったとする。もう、どういう言葉をかけていいのか、わからないまま、病室に着いた。ところが、その友人は、「よく来てくれた!」と、大歓迎してくれて、ホッとした。これ、どっちが励ましているのでしょうか?という話です。励ましに行ったはずの人のほうが、死ぬ間際の友人に、逆に励まされている。じつは、励ますことができると励まされるのと同様で、励ますのと励まされるのは、同じなのです。助けるのと助けられるのも同じだし、支えるのと支えられるのも同じ。受けるのも与えるのも同じだし、理解されることと理解することは同じだし、愛されることと愛することは同じだし、祈ることと祈られることは同じ。
 私のnoteも、私が誰かを励ましているようでいて、じつは、私が励まされているのです。おかげで、こんなに深刻な状況なのに、前を向いて、きょうも私は生きている。私は、大変かもしれないけど、不幸ではない。


 うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる


 有名な、相田みつをの書です。相田みつをのバックボーンは仏教ですが、驚くほど、この書の内容は、聖書に出てくる、五千人がパンを食べた話に似ています。五千人が、パンをわけ合ったら、みんなが満腹して、しかも十二のかごに余ったのです。この「わけ合えばあまる」というのは、宗教を超えて、真理なのだと思います。

 多くの人は、「うばい合えば足らぬ わけ合っても足らぬ」と思っています。でも、実際には、わけ合ったらあまるのです。私も、こうしてパソコンの前で執筆しながら、いろいろな人を思い浮かべています。思いもかけない人が、私の文章で、励まされていきます。まさに、わけ合ったらあまるのです。励ましているつもりの私が、励まされているのです。このあいだ書いた、「自分のことはさておきひとの心配をしましょう」も同じことです。「ひとへの思いやり」というと、ずいぶん、立派なことをしているように思いますが、そういう意味だけではないのです。じつは、自分のためにもなっているからです。

 私の文章をお読みになり、「励まされた」とおっしゃってくださるかたの存在は、私にとって、励みなのです。おかげで、私が励まされています。まさに、三十倍、六十倍、百倍になっていくのでしょう。暗闇でささやいたことは屋根の上で言い広められるのでしょう。どんどん、増えるのです。

 みなさん、希望はありますよ! 根拠はないですけど、根拠もなく信じることを信仰というので、私も根も葉もなく言います。大丈夫です、なんとかなります!

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