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『チ。』と『成長教』の感想

 いまから30年以上前、私が中学生のころの話です。そのころの私は「4次元」を考えることにハマっていました。もともと数学の好きな少年だったのです。その時代はインターネットもありません。あるとき考えていたのは「2次元において、2直線の位置関係には『1点で交わる』と『平行』と『ぴったり重なる』の3種類がある。3次元にいくとこれに『ねじれの位置』が加わる。ならば、4次元にいったら、2直線の位置関係にどういったものが増えるのだろうか」ということです。きっと「ハイパーねじれの位置」みたいなものがあるに違いない。そのように中学生だった私は考えて、ひたすら考えました。1か月くらい考えた私がついに達した結論があります。「もう増えない」!このことに私は非常に感動しました。結論は私の予想を裏切ったからです。「自分で自分に裏切られる」経験をしました。これが「学問」というものの経験だったと思います。学問というものは、結論ありきではない。そのようなことは、そのあと私は何度も味わうことになります。

 『チ。』というマンガを、最近、ある牧師さんから借りて読みました。既刊の5巻まですべて読みました。簡単に言うと地動説と天動説の話で、15世紀のP国という国で、天動説がC教(キリスト教のことです)という国教の公式の教えとなっており、それに反対する者(地動説)は容赦なく殺されていった話です。もう返却してしまったので、文字通りの引用ができないことをおゆるしください。登場人物が「自分が間違っている可能性も含めて考慮するのが本当の学問ではないか」というふうなことを言う場面があります。ある天動説を信じていた学者が、それを証明するために、生涯をかけて膨大な観測データを取り、その結果、晩年に、どうやら地動説のほうが正しいのかもしれない、という含みを残して世を去る場面もありました(どうも、1回しか読んでいないのに、こんなことを記憶で書いて申し訳ございません。とても有名なマンガらしいので、間違っていたら恥ずかしいです)。これこそまさに「自分で自分に裏切られる」典型的なパターンであり、本来の学問とはこうあるべきだと、現代のわれわれから見たら思えるわけです。しかし、いまだに世の中はそうなっておらず、相変わらず「結論ありき」の議論がまかり通っています。このマンガがヒットしている背景には、そういった21世紀の日本での理不尽な空気も反映しているのかもしれません。

 もちろんマンガですから、単純な「あれかこれか」で描かれています。当時から「惑星の軌道は楕円である」などという議論があったのかさえ、私にはわかりません(それってニュートンの時代の話では…と思ってしまうのですが、私の認識不足ですか?)。しかし、C教のような「イエスはキリスト(救い主)です」という「結論ありき」で、あとから理論武装のために理屈をくっつけていくのが「神学」だとしたら、もはやそれは学問とは言えないわけです。そして、私はその21世紀日本におけるキリスト教の信者であり、たしかに宗教にはその側面があることは否定できません。私自身はあまり経験していませんが、「とにかく聖書は正しい」と聞かされ、それを補強する議論や「説教」ばかり聞かされ、「なんか信用ならないな」と思いながら何十年も信者を続けてきている人もいることはよく知っています。それはやはり「聖書は正しい」という「結論ありき」だからです。もちろん宗教は学問とは違い、「根拠もなく信じる」ことこそが、宗教の骨頂だと思います。だからこそ私の座右の銘は「見ないで信じる者は幸いである」(新約聖書ヨハネによる福音書20章29節)であるわけです。しかし、学問というのは、徹底的に「見なければ信じない」世界です。すべての主張には根拠があるのです。しかし、「聖書は絶対に正しい」という立場をくつがえす、いわゆる「リベラル」と言われる人たちのあいだにも、実は「結論ありき」の論法がまかり通っていることも私は知っています。たとえば、ある教会の聖書研究祈祷会では、現在、旧約聖書の「ヨシュア記」が取り上げられています。ヨシュア記は他民族を制圧する残虐な記述に満ちています。それを聖書に書いてあるからと言って是認することは認められないという論には賛成したいです。しかし、結局「ヨシュア記はフィクションである」というのが「結論ありき」になってしまったら、「イエスさまは救い主です」とか「聖書は絶対に正しい」と言っているのを「丸信じ」しているのと論法的には変わらない。すべての理屈は「後付け」で、やっぱり「結論ありき」なのです。私が教員採用試験を受けていたころ、複数の学校で出題された問題で「生徒から『なぜ数学を勉強するのですか』と聞かれたら、あなたはどう答えますか」というものがありました。これこそどう答えても「だから数学は勉強すべきなのです」という「結論ありき」の問いであり、こういう問い自体が、はなはだ学問の本質を損ねるものです。もしこういう問いが生徒から出たら「その問いを生徒とよく考えてみたら、数学を勉強する意義ってないねという結論に到達するという可能性」を排除してはならないのです。「自分が間違っている可能性をコミで考える」のが学問の骨頂だからです。

 それにしても、この『チ。』というマンガが多くの若者から支持されているのは、やはり世相なのであろうか、と考えさせられました。あまりに世の中は「結論ありき」の議論に満ちており、理不尽で閉塞的で、「ほんとうのことを言ったら口を封じられる」空気に満ちている。では、21世紀の日本における「C教」とは何であろうか。これは、以下のマンガの存在を知って、少し見えた気がしました。

 『夫は成長教に入信している』というマンガです。


 このマンガは、そのリンクの無料試し読みの2話しか読んでいませんが、だいたいわかりました。以下の私の記事で言っている「カルト宗教に見えないカルト宗教」の集大成が、この「成長教」です。



 古い例を出せば「成長戦略」なんていう言葉が流行った時代もありました。もっと古い例を出しますと「変わらなきゃも変わらなきゃ」というコマーシャルもありました。みんな、変わらないと、と思っているのです。成長しなきゃ、と思っているのです。最近見た宣伝では「和光にはあなたを変えるメガネがあります」というものがあります。和光の悪口ではありません。どこにでもこういう宣伝はあり、人が「変わりたい」と思っていることをたくみに見抜いてコマーシャルを作っているのです。それはまさにカルト宗教です。それをたくみに言いぬいたのが「成長教」という言葉だと思います。「成長」が悪いわけではありません。それは、旧約聖書の「律法」が悪いのではなく、「律法主義」が問題であるのに似ているかもしれません。そして、C教(キリスト教)が「聖書の律法主義」におちいっているとしたら本末転倒なように、「成長」もそれそのものが目的化したらカルト宗教になるのです。

 この「成長教」をも含む概念は、最近、ある教会で洗礼を受けた男子中学生が言っていた「自分教」という言葉に集約される気がします。

 彼は洗礼を受ける(=キリスト教の信者になる)にあたって信仰告白をしました。そして「自分教」というものに言及し、「ぼくも弟や妹とけんかをするときは自分教になっている」と言いました。彼は決して「自分教はいけません」と言ったのではなく、まして「自分教を卒業したからキリスト教の洗礼を受けます」とも「キリスト教の洗礼を受けたら自分教を卒業できます」とも言っていません。「自分教」はみんながとりつかれているカルト宗教なのです。

 1年半くらい前、前の総理大臣が就任したとき「まず自助」と言いました。「自分のことは自分でしましょう」というわけです。それは自分のことは自分でするものでしょうけど、自分のことが自分だけでできるはずはないのです。私は前の総理大臣を批判しているつもりはなく、ただ、国のトップが「まず自助」と言ってしまうくらいの世相だということです。若者のあいだで最も聞かれる言葉が「自己責任」だという話も聞きました。「自分さえよければ」というのも自分教でしょう。それが「成長教」を生成しており、そのごく一部が、私が教員のときにさんざん見て来た「学歴信仰」だったわけです。「時間を有効に使おう」「効率よく」「前倒しできることは前倒し」。こういった言葉が人を追い詰めます。まさにカルト宗教です。この宗教からわれわれはどうやったら脱会できるのか?

 そんなことを思いながら、この2つのマンガを読みました(『成長教』は最初の2話だけですけど)。個人的に思うことは、これは本来の意味での「本当の宗教」の欠如が招いているのではないかということです。結論ありきで理不尽を押し通し、「変わらなきゃ」という強迫観念のようなものを押し付けられる。というか、みんなでそれに洗脳されている。これは「本当の宗教」の出番だと思うよ!

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