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教会での「片手奏楽」

私の現時点での唯一の「音楽活動」が、教会での「片手奏楽」になります。「奏楽」とはオルガンを弾くことです。私は満足にオルガンが弾けません。その教会の「オルガニストの会」に所属する「本物の」オルガニストではありません。小さいころはピアノを習っていましたが、満足に弾けるようになる前に中学で吹奏楽部に入り、私にとって「自分の楽器」はフルートになってしまいました。ずっとのちに、指揮者をやったことがありますが、明らかにフルートよりも指揮者のほうが向いていました。フルートというのは、言いかたは悪いですが「メロディ大好き」のフルートバカが出世する世界であったのです。私は明らかにピアノのほうが向いていました。それも「伴奏」などが向いていたでしょう。オルガンが弾けないのは実にくやしいです。しかし、私は6年ちょっと前から、水曜の夜の祈祷会で奏楽を担当しています。片手でメロディしか弾けません。前奏と讃美歌2曲(多くの場合は1曲の讃美歌を前半と後半にわけて演奏)を弾くばかりです。しかし、「ないよりまし」なので、やむを得ず私が弾いているのです。私よりうまい人が現れたら、いつでも席をゆずるつもりです。実際、私よりずっとうまい人が奏楽を担当した日もあったのですが、その人は他の教会の教会員であり「やはり(うちの)教会員でないと」という話になったらしく(オルガニストの会で?それとも役員会で?)私の「片手奏楽」が黙認されることになったようです。ずっと自己流で弾いています。なかなか本物の奏楽者でも「週に1回」のハイペースで奏楽する人はいないようです。この6年間、どういった曲を弾いてきたか、思い出しながら書いてみたいと思います。

讃美歌を指定するのは牧師であると思われます。それは指定に従って弾くだけです。選曲の権利が奏楽者にあるのは「前奏」です。最初に短い前奏を聴きながら黙祷するのです。1週間、何を弾こうかと頭の片隅で考えるのはなかなか楽しいことです。本物の奏楽者は、ちゃんとした前奏曲を弾きます。教会暦と言って、教会の暦に合わせた曲を弾いたり、それから、その日に歌う讃美歌をモチーフにした前奏曲を弾いたりするのが一般的です。バッハのオルガン曲をご存知のかたでしたら、バッハがそういったコラール前奏曲をたくさん作曲しているのもご存知だろうと思います。実際、少なくとも私の所属する教会のオルガニストが最も好んで弾く前奏・後奏のオルガン曲は、バッハの作曲によるものだろうと思います。しかし、私は「讃美歌をモチーフにしたオルガン曲」を弾くことはできません。そこで、「その日、歌わない讃美歌」を中心に前奏として弾いています。教会暦はときどき意識しています。あしたがイースター(復活節)の3週目となりますが、この時期は復活の讃美歌を弾くことが多いです。まずは、そのような選曲から語りましょう。

もう6年以上もこの奏楽を担当していますので、イースターだけでも何回目かになります。もっともコロナで休会になった年もあり、私自身が何度もダウンしたりとか、いろいろしていますので、毎回ではないですが、イースターの初回の水曜の前奏で「復活の主は」を弾くことはもう何度目かになります。これを弾く理由は、それこそあまり「歌う」ほうの讃美歌でこれが選曲されることがほとんどないことに加えて、このメロディは、レスピーギのオーケストラ曲「ローマの祭」に出て来て、オーケストラをやってきた私にはなじみのあるメロディだからです。(「ローマの祭」を演奏したことはありません。また、この讃美歌が「ローマの祭」に出て来ることを知っている人はクリスチャンでも稀であるはずで、また、逆にクラシック音楽ファンで、このメロディが実は讃美歌であることを知っている人も稀だろうと思います。)先日の水曜は「キリスト・イエスは、ハレルヤ」を弾きました。これも有名な復活の讃美歌です。歌うほうの讃美歌は牧師の選曲ですので、どうしても偏ります。歌詞を中心に考えるでしょうし、皆さんの歌いやすさも考えるだろうと思います。私はなるべくその教会で選ばれることのない讃美歌を弾くのでした。私は満足にオルガンが弾けない代わりに、「耳にした音楽はそのまま楽譜にできる」という「採譜」の賜物を持っています。ほとんどその能力で前奏はこなしています。前奏の直後に1曲目の讃美歌なので、ページをめくる時間を取らないために、何も見ないですぐ弾ける讃美歌(つまり手ではなく耳で弾いています)を弾いているのです。ですから、耳にした音楽ならなんでも弾けるわけです。「復活」のシーズンでありますから、マーラーの交響曲第2番「復活」の一部分を弾いてもいいなあ、とも思ったりします。マーラーの「復活」を前奏で弾いたことはありませんけれども。弾くとしたらどの部分が適切かなあ、と迷うのも楽しみのひとつです。

最近、イースターがありましたので、話をイースターから始めてしまいましたが、教会暦そのものはアドベントから始まります。待降節です。クリスマスを待ち望む季節です。つまり「キリストの誕生を待ち望む」から「誕生(クリスマス)」へ、そしてやがて十字架へと向かう「受難(レント)」があり、そして復活、そして聖霊降臨(ペンテコステ)となるわけです。でも、ここまでの話の順番から、イースターの次に弾くものを書きますね。「昇天日」です。これは聖霊降臨の少し前にあり、必ず木曜になります。したがって昇天日の前日の水曜というのがあります。ある年の水曜が、昇天日の前日でした。私は昇天の讃美歌を前奏に弾こうとしました。しかし、本物のオルガニストでない私は、そういうことはよくわからないのでした。適当に讃美歌集をめくってみました。その教会ではいまでは使われていない古い讃美歌集をめくっていて、ある昇天の讃美歌が目に留まりました。ベートーヴェンの「第九」の「歓喜の歌」のメロディによる讃美歌でした。これなら弾けるぞ、と思って、その日はベートーヴェンの「第九」を前奏に弾きました。終わってから皆さんが笑いながらおっしゃっていたのは、きょうの前奏はコマーシャルソングではないか、ということでした。この歌は讃美歌として認識されていないだけでなく「ベートーヴェンの交響曲」とも認識されていないのでした。「プリントゴッコ」とおっしゃったかたもありました。どうもプリントゴッコのコマーシャルに使われていたらしいです。おそらくは、「年賀状」→「年末」→「第九」ということでコマーシャルに使われていたのだろうと想像します。このところ、昇天日がコロナでつぶれ続けていますが、つぎの昇天日の前日もこれを弾こう。いま、自分で作った教会暦マクロで調べたところ、今年の昇天日は5月26日です。では、その前日に「プリントゴッコ」を弾こう。

つぎに来るのがペンテコステです。聖霊降臨です。これは聖霊がくだるわけですので、だいたい私が弾くのはつぎのいずれかです。「御霊(みたま)よくだりて昔のごとく」もしくは「御霊なるきよき神」です。後者のほうが弾きたくなるのは、「御霊なるきよき神」は、私の教会の使用する讃美歌集にはもう載っていない懐メロの讃美歌であり、歌うほうの讃美歌になることはまずないからです。その代わり、比較的新しい信者さんは知らない讃美歌ですが。クリスマス前のアドベントまで聖霊降臨節は続くため、あとは次第に適当な讃美歌を前奏に弾くことになります。少し気にする季節があるとしたら、10月31日の宗教改革記念日に宗教改革の讃美歌を弾くことでしょうか。これは「神はわがやぐら」くらいしか知りませんので、これを弾きます。メンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」でもおなじみです。なかなか宗教改革記念日の季節にこの交響曲がラジオで流れることもありませんが、2017年の宗教改革500周年のときには、この地元のプロオケのひとつが、演奏会でこの交響曲を取り上げました(聴いてはいませんが、プログラムで見ました)。バッハのコラールにもあります。ストコフスキーの編曲でも有名です。そもそもこのメロディはバッハが作曲したと思っているクラシック音楽ファンも多いものと想像します(私もそうでした)。マルセル・デュプレのコラール前奏曲にもこの曲はありますね。あと気にするとしたら収穫感謝ですね。勤労感謝の日のあたりですが、これも「よいものみな神から来る」くらいしか私は知りません。

さて、アドベントになりました。世の中の人が「クリスマスシーズン」と呼んでいる時期が教会ではアドベントと呼ばれている時期で、これはクリスマスの讃美歌を選んでもいいのでしょうが、アドベントの讃美歌を選びます。アドベントの最初の週は「久しく待ちにし」を弾くことが多いかもしれません。これもレスピーギの「ボッティチェリの3枚の絵」から「東方三博士の礼拝」に引用されていることで有名なメロディです。クリスマスを迎えたらクリスマスの讃美歌を選びます。公現日(1月6日)前後には公現の讃美歌を弾きます。私が知っているのは「暗き闇に星ひかり」か「ふるさとを離れて遠く」くらいです。歌うほうの讃美歌でないほうを前奏に弾きます。受難節には受難の讃美歌を多く弾きます。先日の受難週には私が20年くらい前に作曲した前奏曲(「丘の上に十字架たつ」にもとづく前奏曲)の一部を弾きました。「与えられたメロディに和音をつけます」という賜物をいかせば、いろいろな讃美歌をモチーフにした前奏曲がいまでも作曲できるのかもしれません。そんなわけで、「季節もの」はこんなところです。

こう書きますと、あたかも、とても教会暦に従っているまじめな奏楽者のようかもしれませんが、ふだんはもっとずっと自由に前奏を選曲しています。さきほどからよく出て来ますが、私はクラシック音楽に詳しいうえに、耳で聴いたらすぐに弾けてしまうので、それと気づかれない形で、いろいろなクラシック音楽を前奏に弾いたりしています。ドヴォルザークの交響曲第8番の冒頭のコラールは、短い前奏としてぴったりでした(1回しか弾いたことはありませんが。これに限らず、弾きたい曲はたくさんあるため、「1回しか弾いたことのない曲」は多数です)。よく知っている讃美歌も弾きやすいです。私のかつての職場は、キリスト教の中高でした。いちおうキリスト教であるため、朝礼は讃美歌と聖書朗読とお祈りで始まりました。もっともコロナ以降は知りません。とりあえず讃美歌はなくなったところまでしか知りませんが、おそらく復活してはいない気がします(じつは誰もそんな忙しい朝礼で讃美歌など歌いたくはなかったからです。いらないものはなくなるのです)。私が勤めてしばらくは、無伴奏であったため、どんどん音程が下がって行くのが、絶対音感保持者としてはつらかったですが、ある時期から「ヒムプレーヤー」(讃美歌マシーン。奏楽者がいない場合での讃美歌を伴奏する機械)の登場で、音程の問題は解決されました。その場では、新曲をなるべく覚えないですむためだと思いますが、昔からあるような(教会では)有名な讃美歌を、おそらく30曲程度、使いまわしていたと思います。そこでかなりなじんだ(その多くは教会でなじみましたが、なにしろ毎朝、耳にし、歌ったので、耳にこびりついています)讃美歌は、「とりあえず何を弾こうか」と思ったときにすぐ弾けるレパートリーです。伝統的すぎて、あまりその教会の「歌う」讃美歌ではないのも多かったですし。こういったものから選ぶこともあります。私が信仰生活を始めた東京の教会では、当時、まだ古い讃美歌が使われていましたので、古い讃美歌をあえて前奏に弾き、昔ながらの信者さんに懐かしがってもらうのも楽しいです(これも先ほどからときどき例が出ていますが)。讃美歌以外で楽しかったのが、あるときの私より若い伝道師がいたころで、その若い先生の好きなヒップホップ(と言っていましたが、私にはよくわかりません。同じコードが繰り返される音楽が多かったです。田我流(でんがりゅう)などの名前をかろうじて覚えています)の音楽を耳コピし、その場で楽譜に起こして前奏に弾くことでした。これはほとんどの人が知らなかったからよかったですが、以下のことがありました。3年前の夏、「アラジン」の実写版が流行ったときがありました。「ア・ホール・ニュー・ワールド」という、アラジンとジャスミンが空飛ぶじゅうたんに乗って歌う歌があります。有名な歌ですが、クラシック音楽以外、あまり知らない私には新鮮でした。これを採譜し、そのまま祈祷会の前奏で弾きました。ちょっとまずかったみたいです。「それでは祈祷会をはじめます。前奏を聴きつつ黙祷しましょう」と牧師先生が言ってすぐにアラジンが流れたわけです。みなさん「プッ」と思ったらしいです。翌週、普通に、讃美歌を前奏に弾いたところ、その先生から「きょうの前奏はとてもよかった!」と強調されましたので、やはり祈祷会の始まる黙祷の前奏に「空飛ぶじゅうたん」の音楽はまずかったのでしょう。以来、もうこのような前奏は弾いていません。あえて言い訳をしますと、その場面でアラジンはジャスミンに「ぼくを信じて!」と言います。イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(新約聖書ヨハネによる福音書14章1節)と言っています。つまり「ぼくを信じて!」と言っているわけで、まったく聖書に根差していないわけではない…とも言えるわけですが。あと「弾きたくなるが弾いてはまずいもの」として、たとえば「君が代」があります。それはまずいでしょうなあ。

「奏楽者の心得」として聞いたことのある話で、「その日の説教で出た話の音楽を後奏に弾く」という技があります。水曜の祈祷会で奏楽者に自由がゆるされているのは前奏だけであり、なかなかこの技は出せませんが、この奉仕をはじめてすぐ、レジュメに「ニムロド」が出て来るのに気づいたことがあります。旧約聖書の創世記にニムロドという人物が出るのです。私はエルガーのオーケストラ曲「エニグマ変奏曲」の「ニムロド」を前奏に弾きました。もっともどうやって弾けばいいのかはわかるのですが、その通りに指が動かないため、不完全な「ニムロド」になりましたが。それが6年ちょっと前の2月か3月であり、そのころから始めた活動なので、この活動は7年目であることがわかるわけです。それから、旧約聖書イザヤ書の「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(40章1節)が出て、しかもレジュメに、そこが引用されるヘンデルのメサイアの話まで出て来ていたので、そのメサイアの曲を前奏に弾いた日もありました。聴いていた人でそれがメサイアであることに気づいた人は2人ほどいましたが、それがその日の聖書の箇所だと分かった人はいなかったようです。

これに関連することですが、私は金曜の夕礼拝の奏楽をしたことが2回ほどあります。2018年の冒頭でした。その年度の奏楽者のうち、年度途中で都合の悪くなったかたがおいでになり、私の代打となったわけです。うち3月9日に行われた礼拝で、レミオロメンの「三月九日」が説教で出たことがあります。知らない歌でしたが、私は礼拝の最中にスマホで検索をし、楽譜を見つけました。楽譜の出版社としては、無料で見られては困るので、大きくバツ印で隠されていましたが、それでも見えるところはありました。夕礼拝は「前奏」のほか、讃美歌は4曲ほどあり、そのほかに、献金のBGM(というのでしょうか)と、後奏(「後奏」とも言わないかもしれませんが。祝祷の直後の黙祷の音楽です)がありました。その「後奏」に「三月九日」を弾いたのです。これは多くの人に驚いていただきました。私は礼拝の奏楽の経験のたった2回で、この「説教で出た話題の音楽を後奏に弾く」という気の利いたことができたのでした。

いまもおそらく慢性的に金曜の夕礼拝の奏楽者は足りていないのですが、さすがに礼拝では本物の奏楽者でないと、という判断から、私がいても「ヒムプレーヤー」の出番となっています。実際には、ここしばらく、金曜のその時間に、ある牧師に人生相談に乗ってもらうことが続き、金曜の礼拝に出ないことが続いたら、ヒムプレーヤーに出番を奪われた形だと思いますが(でないと、2018年のその2回の出番はなんだったのだということになります)。水曜もあまり休むと出番を奪われる可能性があります。先日も遅れて行ったら、私は来ないと思われていてヒムプレーヤーが準備してありました。たしかに私は本物の奏楽者ではないため、すっぽかすことがあります。気をつけねばなりません。献金も3年近く滞納している私は、せめてできる教会への「ご恩返し」がこれくらいなのです。正式な奏楽者ではないので週報(教会のお知らせ)に名前が載るわけでもないのですが、これはいまの私の唯一の音楽活動です。ぜひ続けたいです。(多くの人が、自分が教会で果たしている奉仕について語られます。私には「自慢」に聞こえていたのですが、どうもそうではないですね。こんなに自分は充実した信仰生活を送っているのですよ、という気持ちの表れなのです。私のこの記事もそうです。)

東京の教会でも代打を打ったことがあります。水曜の夕礼拝でした。ちゃんと奏楽者の決まっている礼拝ではなく、いつも奏楽をなさるかたがなにかの用事で来られなかったときに代打をしたのです。礼拝中に、ホールでブラームスの交響曲第4番を練習する近所の大学オケがいたため、後奏にブラームス4番を弾いた記憶があります。

さきほども少し話に出しましたが、自作のオルガン前奏曲があるわけです。既存のメロディに和音をつけるのは得意技です。ある若手牧師に気に入っていただけた曲があり、日曜の礼拝で、その牧師さんの最終礼拝の後奏で、本物の奏楽者に弾いてもらうことになりました。しかし、それはナシになりました。理由はよくわかりませんが、バッハのような大作曲家の作品ではないからですかね。教会員の作品でもダメですか。なかなかオルガニストの会は難しいですね。

とにかくちゃんとオルガンが弾けないのはくやしいです。でも、こんなに出番が用意されているのは恵まれていますね。「週に1度、本番がある!」。つぎはいつかと言いますと、私の教会は祝日は休会となるため、つぎのつぎの水曜ですね。マーラーの「復活」のどこかを弾こう!

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