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『僕はイエス様が嫌い』の感想

映画の感想です。ネタバレを含んでいます。

きのうの記事で『僕はイエス様が嫌い』について触れたと思います。じつはきのう、レンタルで初めて観ました。3回、観てしまいました。3年も前の映画ですが、どうやらネットフリックス(※よく知りません。「ナクソス・ミュージック・ライブラリ」という、月額いくらでクラシック音楽のCDが聴き放題のサービスがあり、私は近所の図書館で無料会員になっていますが、それと似たものかな、と思ったりしています)で、先々週くらいから観られるようになったみたいですので、あながち時期外れな感想文でもないと思って書くことにしました。

私は普段、映画を観ません。映画のしろうとです。しかし、音楽でも聖書でも「しろうとの感想」がおもしろいことはありますので、私が感想を書くことにも意味があるかもしれないと思って書きます。

前置きはおしまいです。本題に入ります。

主人公は、ゆら(固有名詞の漢字がわかりませんので、ひらがなで書くことにします)という小学5年生の男の子です。東京から雪国に転校するのですが、その学校はなぜかキリスト教の小学校で、礼拝などがあるのでした。慣れない環境のなかで、ゆらくんが「神様、友達ができますように」(字句通りの引用でなかったらごめんなさいね。3回も観たのにダメだわ)と祈ると、身長が10センチくらいのちっちゃいイエス様が目の前に現れて、賛美歌が流れるのです。翌日くらいに、かずまくんという友達ができました。サッカーの得意な子です。願いがかなったではないですか!

その日の夜、風呂の中で、ちっちゃいイエス様に「お金をください」と言ってみると、翌日くらいに、おじいちゃんのへそくりの千円が出て来ました。

かずまくんとは急速に親しくなりました。別荘に遊びに行ったりして、とても仲良しになりました。ここからがネタバレなのですが、ある日、かずまくんは、急に交通事故で意識不明の重体になるのです。ゆらくんは必死で祈りました。しかし、なぜかこの祈りは聞かれず、まもなくかずまくんは亡くなってしまいます。ゆらくんは学校の礼拝での「お別れの会」で「弔辞」と「お祈り」が当たりました。ゆらくんは弔辞は読むのですが、さて、お祈り。またちっちゃいイエス様が目の前に現れましたが、ここでなにを祈るのか。かずまくんの魂の平安(=「ご冥福」)か、ご遺族になぐさめがあることか。しかし、かずまくんが亡くなる前に、ゆらくんは何度も必死で祈ったではないか!ゆらくんは、祈るために組んだ両手で、目の前のちっちゃいイエス様を、ゴキブリを退治するかのごとくに、ボン!と叩き潰します。これがだいたいのあらすじになります。

この映画を観て、聖書ではなぜラザロが復活するのかが、痛いほどわかった気がするのです。あのラザロの話は、そうあってほしいという気持ちの表れだったのです。

聖書には、イエスが死人をよみがえらせる話がいくつか出て来ます。ラザロが有名ですが、そのほかに、ヤイロの娘やナインの若者など。ここでは新約聖書ヨハネによる福音書11章1節以下の、ラザロを復活させる話に注目します。イエスと親しかった(「愛しておられた」と5節に書いてあります)ラザロが、病気で亡くなってしまうのです。ベタニアという、ラザロと、その姉妹のマルタ、マリアの住む町にイエス一行が到着するころにはラザロは亡くなっていました。35節から37節に、以下のように書いてあります。「イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた」。

ここで終わっているのが『僕はイエス様が嫌い』という映画なのです。聖書では、このあとに、イエスがラザロを生き返らせる場面が出て来ます。これは人情というものです。映画とはいえ人が死んでいます。なんであんなに仲の良かった友達が、急にいなくなってしまうのか。担任の祈りのなかで「イエス様の『求めなさい。そうすれば、与えられる』という御言葉がうんぬんかんぬん」という言葉が出て来ますが、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉が、これほどむなしく響く場面もなかろうと思います。もしもこの映画の結末に耐えられない人がなにかを付け足すならば、それは「イエス様がかずまくんを生き返らせる話」でしょう。つまり、「ラザロの復活の物語」と、「僕はイエス様が嫌い」という映画は、紙一重なのです。

「祈りが聞かれない」というのは、私たちがしばしば経験するところです。公開から2年後、DVDの発売のときの監督さんのインタビューから、以下のような言葉を見つけました。「自分に都合のよいイエス様との別れ」。それがこの映画のテーマであることは明らかであるようですが、そうはいっても大切な友の死です。かなうことを願っているからみんな祈るのだと思います。「御利益宗教からの脱却」ばかりが宗教的な成長でもなかろうと思います。

とにかく、聖書ではなぜラザロが復活するのか、すごくよくわかった気がしたわけです。あれは願望です。愛する者に生きてほしいという。

短いですけど、これ以上の感想は書けないと思います。これでおしまいです。ありがとうございました。(※とてもいい映画ですよ。雪国の冬景色も美しいですし。)

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