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会えなくなった友だちの誕生日を前に思うこと。

明日は、大学時代によく一緒になってつるんでいた友だちの誕生日。
ある年、もう「おめでとうメールは遠慮するよ」と言われたけれど、他に連絡する機会がなくなってしまうと思って毎年メールを送ることにしている。
彼女だけでなく、友だちの誕生日には必ず彼らを思い出している。

二十数年前。
人の誕生日を覚えていられることが自慢だった。
手帳など見なくても、日付だけを見てすぐに「その日が誕生日の人」を思い出すことができた。
友だちの誕生日は一度覚えたらよほどのことがない限り忘れなかった。

当時は「人の誕生日を覚えていること」について友だちから「すごい!」と尊敬のまなざしを向けられたし、自分でもそれが自慢だった。

でも、普段の生活をするうえで、人の誕生日を覚えていることなんて何の役にも立たないということにすぐ気づいた。
実際、仕事ができる人は、人の誕生日を覚えていない人がほとんどだった。仕事ができる人はそんなことよりも、もっと仕事に役に立つ知識で頭の中を満たしているものなのだとある時悟った。

人の誕生日を覚えていることを自慢に思う自分を恥じるようになったのは、しばらく経ってからだった。

そしていつのころからか、人の誕生日はケータイやスマホのカレンダーが教えてくれるようになっていた。
せっかく誰かの誕生日を覚えていても、もうそれは特別なことでも何でもない。
一度登録したカレンダーのリマインダーが、毎年忘れずに教えてくれる。

高校時代の部活仲間のグループLINEでは、誰かの誕生日になると「おめでとう」が飛び交うようになった。
だいたい一番最初にメッセージを送る人は決まっている。彼女は全員の誕生日を覚えているわけではなくて、カレンダー管理をしっかりしていた。
わたしは日付を確認したときに「今日は誰の誕生日か覚えているよ」と思い、LINEグループでは、一番バッターに続いてひっそりとお祝いメッセージを送ることにしている。

もう、日々の生活を営むのに必要でないことは、覚えておかなくていいのだ。便利なツールが人間に無駄なエネルギーを使わなくていいと訴えてくる。

それでも私は、一度覚えた「友だちの誕生日」を今のところ忘れていない。
しばらくは誰かの誕生日を意識する生活を送りそうだ。

きっと、「誰かの誕生日」を忘れることがあるとしたら、新しい知識で頭の中がパンクしそうになったときだろうか。

まだ頭はパンクしていない。新しい知識をどんどん吸収していこう。

そして明日誕生日を迎えるあなたへ。
しばらく会っていないし、次はいつ会えるかわからないけれど、次に会ったときはまた新しい知識を得て成長したわたしを見てほしいな。
その日が来るのを待っています。

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