語り部の声を聴くこと

塚田有一さんというガーデンプランナーが主催する温室という場で開催された、KATARIBE 鶴田真由 × 内田輝 × 塚田有一に参加してきた。きっかけは鶴田真由さんのFBだが、日々自分がやっている活動、これから続けていきたい活動に多いにリンクする、との予感があったからだった。で、その予感は外れなかった。
http://onshitsu.com/2019/03/31-064258.php

最初に、内田輝さんから音を聴くコツのようなものを、簡単に伝えられた。”聴くために、自分から聞きにいかずに、音を待つ” “自分の身体に意識を向け続ける”。確かに最初にこの2つを伝えられたおかげで、パフォーマンス中に何度も通った選挙カーの演説を、”うるさい雑音”と普段なら単なるノイズとして切り捨てていたものを、バックで聴こえる”BGMの1つ”のように、ラクに受け入れられた気がする。

パフォーマンスも良かったのだが、特に印象深かったのは3人で行われた対談だった。最初に鶴田真由さんが、私は写真家では無いが、という断りを入れた上で、”例えば自然の中で写真を撮る時、周りの植物が何かを語りかけて来た瞬間に、呼ばれたと感じてシャッターを押してるのかもしれない。だから、タイトルをKATARIBE (語り部)にした”と、仰っていてなぜ普段から自分がこの人の活動に惹かれて注目しているか、がよりはっきりと自覚できた気がする。

内田輝さんの話もまた強烈だった。名前は忘れてしまったが、ゴルフやテニス、野球などのスポーツ選手にみられる、いわゆる”イップス”のような病気が、音楽家の方々にも多いらしい。つまり、ある行為をきっかけに精神的な問題から、身体が硬直して動かなくなってしまうような症状だ。内田さんは10年以上、この症状に苦しみ続け、抜け出したのはつい最近だそうだ。それでも完全には治っていないらしい。

興味深かったのは抜け出すための方法だが、あらゆる音の”ラベリング”を外していく、といった事をしたそうだ。つまり、人間はあらゆる事に”ラベルを貼る” “意味付け” をおこなってしまう生き物だ。もちろん、それが生きていく為に必要だからそうしているのだが、そこには当然副作用もある。言うまでもなく、選挙カーの演説を”うるさいノイズ”と判断しているのは、個人の意味付けによるものだ。本来、音そのものに意味は存在しない。例えば、”ド”という音にしても、”この音域は人間が生きていく為に共通認識として便利だから、ドという事に決めましょう”、といって決めた言わば後付けに過ぎない。内田さんに言われるまで、意識した事も無かったが、”ド”には厳密にはド以外の色々な音域が混じっているらしい。これも言われると当たり前なのだが、普段そういった事はなかなか意識しない。言葉は、人間を便利にもしたが、不自由にもした。多くの人は、何かに言葉がついた瞬間に安心し、それ以上の思考を止めてしまう。あらゆる物事が”ラベリング”しているに過ぎない、ということが自覚出来て初めて、それを外すのか、保ち続けるのか、貼り替えるのか、といった選択が可能になる。意味付けを全くしないAIはイップスにならない。何らかの行為を、”ネガティブなもの”として認識する人間特有の症状だ。

3人はそれぞれ、”他者と自分”、”音と人間”、”植物と人間” の中間に居るような存在で、そこを繋ぐ橋渡しのような役割を果たしている、という点で共通しているように思う。いわばシャーマンのような存在に近い。そういった人が紡ぎ出す対話が、面白くない訳がない。
しっかりと自分の心の声、周りの音に耳を澄ませられるように、自分から聞きに行く、のでは無く、来るのを待てる人、でありたい。

#エッセイ #店主 #パフォーマンス #場を作る #聴くこと

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