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新世紀エヴァンゲリオン×ヱヴァンゲリヲン新劇場版 【シンへと繋ぐもの】

新世紀エヴァンゲリオン×ヱヴァンゲリヲン新劇場版

ガールカフェガン 〜非特異性幽閉〜×新世紀エヴァンゲリオンエセ構造分析

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感受性がまだ我が物としきっていないイメージを暗示しようとする試みが存在するのである。
というのは、感受性は知性の習得に対して常に遅れるからであり、三世紀半も前から我々の先祖たちが、太陽は動きはしないことを学校で学んでいるにもかかわらず、先祖代々今日においても感受性は〈日が昇る〉と考えがちなのであるから。

高田明典、『エヴァ』の遺せしものP.19
アニメーション構造分析方法序説より
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何でも一生懸命読まなきゃ駄目だ。詩でも小説でも作者は命懸けで書いているんだ。だから読む方だって命懸けで読まなきゃ失礼なんだ。そうでなければ字面ばかり追うだけで本当の宝物は見せてくれないんだよ

成田三樹夫、『鯨の目』
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※序文をお読み頂き、もしお気に召さない様でしたら、1番最後の『終章』だけでも目を通して頂けると幸いにございます。
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1.はしがき

お初にお目にかかります。まずはこの文を書いている僕の自己紹介から入りたいと思います。だって、流石にどんな人が書いているのか分からない文書を読むのって、なんだか怖いでしょう?

たまに、戯けてみたりもします。

こんな人間が書いています。自己紹介終わり。

さて、では本項について話しましょう。
当記事では...当記事なんて如何にも気取った感じがして嫌いだけど、他にいい言葉が見当たらなかったんだ。ごめんねソーリー。
まず、一番最初に告げなければならないのは、
私はエヴァに関する考察サイトに目を通していないという事だ。
これはつまり、当記事の目的が、エヴァの緻密にしかれた設定や現実的描写、それらによる解釈を図ろうとしている訳ではない事を意味している。
私が扱うエヴァとは、全人類を優しく包み込む柔和な母性を感じさせるような、エッセンスそのものだからだ。
ここをまず、読み込む人と意思の共有をしなければならない。
つまるところ、現実という枠組みを取っぱらって、空想や思想に近い所からエヴァを解釈しようというのが本記事の目的なのだ。

さて、では私がこうしてエヴァについて書こうと考えたのはなぜかというと、ガールカフェガンというソーシャルゲーム内のイベント『非特異性幽閉』によって、頭の中に電流が流れたからだ。
このイベント『非特異性幽閉』とはなんなのかというと、
【人を想う強さが人の存在を仮定させ、現実的存在に昇華させる】というものであり、エヴァの人類補完計画に類ずるパターンがあると気付いたからである。

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他には、ゲーム内に登場するキャラクターの特徴が反転の関係、アシンメトリーであることからも触発された。
それは、両作品のキャラクターである、碇シンジとアイリーン・ホワイトの闘争への姿勢である。

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碇シンジの場合は、
『誰かと関わることによって傷付く自分が嫌』で
アイリーン・ホワイトの場合は、
『世界を平和にするための戦いの中で、自分の心が傷付いても、世界がそれで平和になるなら、傷付く自分を受け入れる』っていう
両名の争い事への捉え方が全く異種なのである。
ここは、旧エヴァと新エヴァの展開の差異のように感じられ、頭の中に爆発的に様々な構想が浮かんできた。

今回は、その中から1部を開示することにする。
言わば、私と皆さんで、旧エヴァのように人類補完計画を本記事によって成し遂げよう。

では、僭越ながら語り手をこの私、
あんろっくが努めさせて頂きます。
どうか、皆様に価値ある時間を届ける事が出来ればと、筆を精一杯走らせて頂きます。
最後までお付き合い頂けたら、嬉しいな。


2.エヴァQ 空白の14年間の意味

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エヴァQでは碇シンジの眠っている間に14年間が経過している。彼は自分の知らぬ間に周りの環境が大きく変わっていることに対して、大きな戸惑いをあらわにした。もし僕がシンジくんなら、玉手箱を開けた浦島太郎と同じ心境になるだろう。
さて、度々話題に挙がる空白の14年間ではあるが、私としては、物語的な意味ではなく、もっと大きな視野で考えるべきものであると感じた。
それは、新世紀エヴァンゲリオン旧劇場版 Air/まごころを君に(1997年放映)と、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q(2012年放映)の現実の空白期間が、近似しているからだ。(延期を重ねているため、厳密に一致するのは難しかったと解釈)

庵野監督は、ここになにかしらの大きな意味を込めたということは邪推の範囲では収まらないように思える。

では、現実の空白期間と、アニメ内の空白期間を合わせるのはどう言った意味があるのかと言うのを自分なりに考えて見たところ、旧エヴァと新エヴァの融合を図るという意志表示であるのではないかと思い至った。

新エヴァの『序〜破』の展開は旧エヴァには無いものであり、故に旧エヴァとは全く別の異なる作品であるという事を視聴者に知らしめた。
異なる展開としては、ニアサードインパクトなどが挙げられる。
しかし、庵野監督自身としては、旧エヴァの延長線上に新エヴァがあるという位置づけであるのだろうと想像した場合、あの手この手で2つの作品を融合させようとするはずだ。しかし、あからさまに2つの作品を繋げるなんてクリエイターとしては表現力が欠如していると思われてしまう。だからこそ、現実の空白期間と、作品内の空白期間を合わせたのであろうと予想した。
また、この謎の空白期間と同じように、エヴァQでは様々な視聴者をおいてけぼりにしてしまう難解なシーンが産まれ、劇場は非難殺到、インターネットは阿鼻叫喚の嵐に見舞われた。

では、その難解なシーンについて、次の項を充てよう。


3.エヴァQ ピアノの意味

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生きていくためには、新しいことをはじめる変化も大切だ。

渚カヲル『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
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前項に引き継ぎ、この項でも同じく旧エヴァと新エヴァの融合について考えてみる。サクサクと内容に入っていくぞ。

では、上で言った難解なシーンとはなんぞや? というと、それはピアノの連弾のことである。なぜピアノの連弾? そんなことしてる場合なのか? という疑問も勿論浮かんでくるが、僕として感じたのは、エヴァQの崩壊した世界観の中に、ピアノがぽつんと置かれているのはおかしいということだ。
おかしいっていうのは、アレだけ倒壊した建物の中に、物静かに佇むピアノの存在が奇抜で、浮きすぎていると言う意味でだ。
だから、あのピアノには何らかの意味があると見ていい。
じゃあ、その意味はなんなのかっていうと、
Qの物語的には、シンジとカヲルの心を近ずけるための儀式である。
そう思えるのは、旧エヴァでカヲルは言ったセリフからだ。
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音楽はいいね。歌は心を潤してくれる。
リリンが生みだした文化の極みだよ。

渚カヲル『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』
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故に、カヲルという使徒と、碇シンジの接近をピアノの連弾で表現しているとみた。
世紀末的な世界観の中に、ひとつ置かれるピアノは、まるで砂漠に咲く一輪の花のような美しさまでも感じれて、個人的にはかなり好きなシーンだ。
またそれと同じく、新エヴァQの世界観の中に、
突然放り出された視聴者の心境も表現しているとみていい。
さて、では物語的な意味より大きな意味で言うとどうなのかと言うと、旧エヴァと新エヴァの融合という意味になる。
厳密に言えば、混ざり切ってはいないが、
限りなく近くに両作の存在を近ずけることにその意味があると僕は感じた。


次項では、旧エヴァと新エヴァを繋げるキーパーソンである、碇シンジについて触れていく。


4.碇シンジ【旧エヴァと新エヴァを繋ぐもの】

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さて、前項までの流れは、
旧エヴァと新エヴァの融合について触れてきた。
渚カヲルと碇シンジのピアノ連弾によって、
旧エヴァと新エヴァの歩み寄りと、
碇シンジと渚カヲルの邂逅を表現していて、
またそれを補完するものとして、
空白の14年間は、旧エヴァと新エヴァQの現実の上映の空白期間と合致していることから、
両者の時間の一致を意味することを表明した。

では本項では、空白の14年間によって生じた
旧エヴァと新エヴァの碇シンジの非合致(ミスマッチ)と合致についてだ。

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旧エヴァと新エヴァの碇シンジの不合致
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まず、碇シンジがエヴァンゲリオンに乗る目的を明らかにする必要があるだろう。
旧エヴァでは、碇シンジは戦いへの姿勢から推察するに、
自分が傷付くことを何よりも恐れ、ほぼ常に消極的にエヴァンゲリオンに乗っていた。

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旧エヴァで、エヴァシリーズに蹂躙されたエヴァ弐号機を助けるために搭乗したは良いものの、
時は既に遅く、アスカはバラバラにされてしまっていた。
これを目撃する前のシンジの魂が抜けたような表情と、凄惨なアスカを目撃した現実を受け入れられない悲痛な表情からは、彼の戦いへの消極的な姿勢が汲み取れる(あれだけ残酷なの見せられたら戦意が喪失するのは当然とも思えるが)。



では、新エヴァQではどうなのかというと、
ニアフォースインパクトを、人類の救済のために行うと本気で信じ込んでおり、そのためにはかつての味方を裏切ったとしても構わないという、なんとも肝の座った人間として描かれている。

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この、戦いへ参加する心の原理の差異が、
2人の碇シンジの戦いへの姿勢の不合致(ミスマッチ)だと思われる。

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旧エヴァと新エヴァの碇シンジの合致
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では、合致している部分は何なのかと言うと、
成長を拒み、恐れる心の原理だ。
旧エヴァの碇シンジは、人類補完計画を受け入れることも無く、かといって人類補完計画を拒否することも無かった。
彼はいつだって自分の成長を他人へ押し付けていた。
それは、ゼーレが碇シンジの心は空になっているという旨の発言をしていることと、
また、LCLに還元されて全ての人々と合わさった精神世界で、1度はアスカを拒絶したが、
結局自他が別個の生命として生きる事を望み、人類補完計画を棄却したが、いざアスカを目にするとお前のことは受け入れられないと首を絞めて、殺そうとする。

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どこまでも我儘で、自分の成長を促さず、
他人に自分を受け入れてもらうことで、
自分の成長を見つけているのだ。
他者に依存しきった成長に意味はあるのだろうか?
この事から、当時の視聴者たちに走った衝撃はかなりの物だろう。リアルタイムで観ることが叶わなかった自分にとっては大きな損失だった。
話が横道にそれた。歩調修正。

では、新エヴァの碇シンジはどうなのかというと、彼は自分の意思によって13号機に乗り、
人類を救うためにフォースインパクトを起こそうとした。

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これはつまり、他者からの助言を無しにしての、彼なりの成長の仕方だったのだろうと思える。

こう見るとまるで、碇シンジの成長に対する心構えは旧エヴァと新エヴァでは異なるように思える。
しかし、碇シンジは信頼できない語り手でもある。
それは、上記で言明した、旧エヴァで1度は他者の存在を認めていながらも、アスカを絞め殺そうとした事から考えられる。
よって、碇シンジの心を深く掘り下げることで、この不合致は、実は根底では合致の関係である事が分かる。

ではその根底とは、碇シンジは
他者の存在を恐れていながらも、他者の存在を欲していたという、背中合わせの考え方が出来る。
これは、旧エヴァのラストでアスカを殺せなかったという事実、
また新エヴァでは、渚カヲルの喪失によって浮上する考え方である。

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つまり、『2人の碇シンジを繋ぐものとは、
他者の存在への捉え方』である。

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合致と不合致の境界
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ここまで読んでくれたそこの貴方、疑問に思っただろう。
合致してるならそれでイイじゃん。なんでわざわざシンジくんのかさぶたを抉るようなことを紹介したんだよ! と。
まぁ、そう焦らないでくれ。
不合致を紹介したのもしっかり意味がある。
実を言うところのこの不合致とは、
正確な表現に正せば、
碇シンジ≠視聴者の構図を、
旧エヴァ≠新エヴァの対立によって説明したものだと思われる。
つまり、視聴者側からすれば、
新エヴァの物語は、旧エヴァとは異なるストーリーであり、別個の物語であると期待したはずです。
それは、庵野監督が新エヴァ破にて新しく登場させた真希波・マリ・イラストリアスというキャラクターによって説明された事を理解したという事でもあります。
しかし、実はその解釈は少し異なるという事なのです。
それは、近日公開の新エヴァ最終作、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』というタイトルから推測され、実は庵野監督としては
新エヴァは旧エヴァの"地続きにあった別作品"
という位置づけという事がわかります。

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そして、新エヴァ破での碇シンジは
エヴァンゲリオンに乗る理由として明確な意思がありました。
それは、綾波レイを助けたいという一心だったはずです。
旧エヴァで、アレだけエヴァに乗りたくなかったシンジが、自ら進んで乗るなんて信じられない。

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だから、旧エヴァを観た人からすれば、大幅な物語の改変にあたる。
だから、その解釈のすれ違いを、
旧エヴァと新エヴァの碇シンジの
『他者の存在への捉え方』という面を使って
視聴者に伝えようとしたのだろう。

本編のセリフを借りるなら、旧エヴァと新エヴァは『始まりと終わりは同じ』という事なのだろう。

5.閑話休題

さて、旧エヴァと新エヴァを繋ぐ事への思考は以上までとして、
ここで、私が上記のような発想に至った経緯について話したいと思う。
それは、ある日、キャラクターの性格構造を調べている時の事である。
新世紀エヴァンゲリオンの主人公である碇シンジと、ソーシャルゲームのアイリーン・ホワイトという登場人物の戦いへの姿勢が、表面的には同じであるものの、深い部分では異種であることから
着想を得た。
以下にその気付きを得た原文をそのまま載せる。

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某日メモ

エヴァの碇シンジくんと、
ガールカフェガンのアイリーンって
一見すると似ているようで、戦いに対する根底のスタンスは全く別なんですよね。
お互いに、争い事は極力さけるっていう表面は同じなんですけど、
碇シンジくんの場合は、
『誰かと関わることによって傷付く自分が嫌』で
アイリーンの場合は、
『世界を平和にするための戦いで、自分の心が傷付いても、世界がそれで平和になるなら、傷付く自分を受け入れる』っていう
両名の争い事への捉え方が全く異種なんですよ。
一言でいうなら、碇シンジくんは自分が大好きな子供であり、アイリーンは博愛主義者なんですよ。
先日、僕が投下したエヴァンゲリオンとガールカフェガンの逆ギミックへの追究は、ここのキャラクター造形のアシンメトリーから、もしかするとストーリーの造形も対の関係では無いかと邪推したのが始まりでした。

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はい。上記の原文から察せられるとは思いますが、実は先日、ソーシャルゲームとアニメを
抽象的に捉えて、両者を対比させて自己と他者について述べるという、冗長な内容の文章をTwitterに投下しました。

この投稿の目的は、特に無く。
ただ両作品の構造が同じテーマを取り扱っていながらも、その関係が対比であることに興味をそそられたから書いたというだけです。
内容は、人類補完計画と非特異性実体を具体的な定義から、抽象的な定義にどんどん還元させ、両者の差異と、その根底に潜む共通の考え方を浮き彫りにする。そこから、旧エヴァの2通りの終わり方について曖昧に言及して終わり。
随分とおざなりな散文になってしまったが、
興味を持ってくださったなら、もしよかったら見てみてね...

6.苦しみの生とやすらぎの死

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祈りは神を変えず、祈る者を変える。

セーレン・キルケゴール
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では、前項での流れを汲み取って、全く異なるジャンルの話を、私が最近身につけたばかりの付け焼き刃のエセ構造分析を使って解体し、またそれを再度結びつける事にしよう。

題材はもちろん、『エヴァンゲリオン』と
『ガールカフェガン』だ。

網羅性の高い図にて行う。
エヴァンゲリオンとガールカフェガン構図

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この構図から読み取れる中で1番メタ的な視点のものは、戦闘目的だ。
どれだけの脅威と争い合うことになろうとも、
人類は神には頼らず、相手から盗んだ技術やエネルギーによって決死に対抗している。

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そして、両作品に共通するのは、
"生"="平和"を求めるために神に祈りを捧げるのではなく、ひたすらに弱い自分たちを奮い立たせて生き延びようとする『リビドー』なのだ。
しかし、生きることは苦痛すらも伴う。

エヴァンゲリオンの碇シンジは、初めての戦闘にて明確な死を経験してしまった。それによって、
生きることの痛みを許容するよりかは、死ぬ事の恐怖『デストルドー』から逃げようとする。
有名な碇シンジのセリフ「逃げちゃダメだ」は
つまり、デストルドーとの対峙と言える。

『リビドー』と『デストルドー』の構造だと、
ガールカフェガンでも同じく当てはまるものがある。それが、結晶体だ。
結晶体からは、絶えず源力と呼ばれるエネルギーが放出されている。
そして、その源力を人類が浴びると、骸晶という怪物に姿を変えられてしまう。
源力によって人々は苦労を強いられた。
しかし、源力によって人類は進化もした。
人類は源力を活用することでO・T・Eという兵器を開発した。
現実で言うところだと、戦争と技術革新は表裏一体という所だろうか。なんとも皮肉なものだ。
では、一体この一長一短な源力のどこに
生と死の渇望があるのかというと、
それは、O・T・E=リビドー
骸晶=デストルドーという構図である。
人々は生き残るため(=リビドー)にO・T・Eを開発した。
しかし、源力によって骸晶になると攻撃的な怪物に変えられる(=デストルドー)
その2つの対立が、源力によってなされている。

ここまでは両者の統一視点からみれる共通点について話したが、次からは両者の相違点について掘り下げる。

前項、閑話休題にて触れた碇シンジとアイリーン・ホワイトの、戦闘への姿勢の違いについてだ。
両者のキャラクターの性格造形の違いがあることは、納得は出来たかもしれないが、ではどうして違うのかと言われると、言葉に詰まってしまうかもしれない。
しかし、私の無い知恵を振り絞り、なんとか両者の違いを見つけることが出来た。

結論から言うと、リビドーの方向性が異なるのだ。
碇シンジは、生きることの渇望を他者の存在に求めた。自分のことが嫌いだから、そんな自分が誰かに認められたら、自分はここに生きていても良いのだと思えるからだ。
アイリーン・ホワイトは、生きることの渇望を神への祈りへと昇華させている(十字架への祈り)。つまり、骸晶を殺すしかない悲愴の現実を受け入れる訳ではなく、世界への関心さに、神という偶像崇拝の蓋を被せることで、かつては人であった骸晶を殺した現実から逃げているのだ。
故に、両者の戦闘への姿勢は異なる。
碇シンジは自分が傷付いても他人から受け入れられるならばそれも良しとするが、
アイリーン・ホワイトの場合は自分の事を受け入れて貰えないならば、それも仕方無しと、他者から受け入れられつつ生きることへの渇望が決定的に不足している。

故に、両者の違いはリビドーの方向性である。

しかし、そのリビドーの方向性の違いがあるからこそ、両者は生きていけることもわかる。
碇シンジは旧エヴァで他者から認めてもらいたいためエヴァンゲリオンに乗り込む。
もし彼が、自分の事を大好きな人間であったならば、こんな面倒ごとを押し付けないで欲しいと、大人たちの提案を一脚したことだろう。
アイリーン・ホワイトは自分の傷付く心のすり傷を祈りにより希望へと変えている。
どれだけ倒しても、源力によって人は怪物に変えられ、またその度に殺さなければならない。
終わりない戦いのためには、アイリーンのか弱い心では余りに背負うものが大き過ぎるのだ。

だからこそ、両者の戦闘への姿勢は違ってよい。
もちろん、リビドーの方向性が違うからこそ、両者はそれぞれ違った理由で自分の心を摩耗させていく。
それは是非、あなたの目で見て確かめて欲しい。弱さを強さで押し切ることの痛みと、
そうでもしなければ生きていけない不器用な彼、彼女の姿は、未完成品でありながらながらも、
決死に生き抜く人らしい様が、輝いて見えるのだ。

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人間はみずからつくるところのもの以外の
何ものでもない。

ジャン・ポール・サルトル
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苦しみと涙、それもまた生なのだ。

ドストエフスキー『罪と罰』
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7.終章

それでは最後に、ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。そして、お疲れ様でした。
私も、このように長文を書くのは久々のため、結構な疲労を感じております。
さぁ、皆様方は本文を読んでどう感じましたか? 全くのデタラメな空想の産物と思いましたか?
今までに見た事のない切り口と感じましたか?
信ずるに値しないオナニーである。お前も庵野と同じだ。と、奇妙なレッテル張りをしましたか?
でしたら、私の目論見は達成されたわけなのです。
何故なら、私が書いた本文は全ての人に対して受け入れられる産物ではないと、私自身が心得ているからです。
それは、物的証拠の無さが根拠であり、極めて抽象的であやふやな『自我』というものを取り扱っているからなのです。
そして、その『自我』が現れるのは、映画の登場人物達の決断であったりと、見極める難易度の高いものなのです。
納得できない?
それでは例として少し、現実の話をしましょう。
では、今から貴方にお願いがあります。
「私の前に『万有引力』を持ってきてはくれませんか? 私は、自分の目で見たことしか信じられないのです」
そう言われた貴方は、どうしますか?
本当に万有引力を持ってきますか?
ニュートンのプリンキピアを持ってきますか?
それでも私は、駄々を捏ねます。
「いやね。そういうのじゃないんだよ。
僕が言ってるのは、もっと具体的な目に見える現象そのものの事なんだよ」
厄介な人間と思ったでしょう?
でも、本当に厄介なヤツってのは、既知の学問を未来永劫信用できるとして、それを人間にまで適用できると慢心している輩だと、私は思っているんですよ。
ここで、現実から話をもどしますね。
だから、私の用いた分析の方法は、様々な学問を見えないくらい基礎において、キャラクターの気持ちを第一に考え、物語に即した理解をするというやり方をしたのです。
あくまでも、学問ありきの物語ではなく、キャラクターありきの物語というスタンスの分析なのです。
と言うのも、私は学問に従って世界が規定されるという考え方が大嫌い(物理学除く)なのです。
何故かと言うと、学問によってキャラクターが定義された瞬間、そのキャラクターは学問的な意味を押し付けられ、自分らしさというものを失ってしまうからです。
そもそも、学問というものは、多くのモデルに適用可能であるという事がウリの研究分野なのです。
そこに、人間を当てはめてしまうと、一気に人生が味気ないものに感じられてしまう。
だから、僕は構造分析の産みの親であるレヴィ=ストロースの教えに背いてまでも、自分の感覚を信じて分析をしました。
もし貴方が、誰かに人生や性格を矯正させられたら、とっても嫌な想いをするでしょう?
だから僕は、人間の心は学問みたいなトゲトゲしいもので理解するよりも、優しく両手で包み込むように、人間らしく理解したいと思ったんです。
学問とは、厳格な父『碇ゲンドウ』のようでもありますね。
そしてまた、我々は人の子であり、神の子ではない。故に、こうして泥臭く、初学問に頼ることなく道しるべを解き明かしたい。
それが、本文すべての意味でもあります。

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愛はまことにこの上ない尊いもので、
それがあれば世界中を買うこともできる。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
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人間はみずからが愛するものごとによって、
形づくられる。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
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終劇

エヴァンゲリオン公式サイト

ガールカフェガン公式サイト






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