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Счастливые города-1

Архангельск

 見渡す限り白色の雪原に、街灯柱が刺さっていた。無限の原野に見えるこの下には大河が眠っており、遠い雪解けの日を静かに待っている。
 確かにどうしようもない街だった。規模の大きな地方都市というだけあってショッピングモールは充実していたが、長居する場所ではおそらくない。同僚のイーゴルが「本当に終わってる、ヤク中しかいねえよあんなところ!」と散々こき下ろしていたほどではないにしろ、地方都市特有の淀んだ空気をところどころで肌で感じた。間違いなく、彼のように1カ月もセベロドビンスクの軍港に長期出張していればさすがに見える世界が変わってしまうだろう。物価の安さも首都暮らしの人間からすればありがたいが、現地の経済状況まで考慮すれば当然手放しに喜べる話ではない。
 しかし思い返しても、本当に美しい光景だったと思う。極地に近いというだけあって、あまりにも早い厳冬の夕暮れを迎えようとしている空は薄い茜色に染まろうとしていた。あのまま道を歩くと大河の河口に浮かぶ島に辿り着けるらしいが、それならば夏場はどうしているのだろうなどと考えてしまう。渡し船でもあるのだろうか。地図を見るとそこそこ栄えた集落ではあるようだ。 

 寒空の下、煙草を1本吸って駅舎に戻る。これくらいの寒さはモスクワでも当たり前のはずだったのに、ここ最近は零下15度を下回る日は滅多にない。幼少期にはよくはしゃぎまわった結氷した川がすぐに融けてしまうのには、どうにもつまらなく感じてしまう。冬は冬らしく、どれだけ寒くたっていいのだ。
 強烈な寒暖差にくらりとしながら、ため息をついてベンチに腰掛ける。モスクワ行きの列車まではあと40分あまりあるが、特にやることもないので下を向いて思考に耽る。
 学生の頃はそれなりに好きだった列車旅も、社会人になってみるとどうも楽しみが感じられなくなった。前後の日取りに余裕があったので久々に列車を取ってみようと思ったのだが、仕事となるとどうも落ち着かず、終始心の眼を通して見る車窓に霧がかかったような旅路だった。夜中の停車駅でホームに降りて吸う煙草は相変わらず美味かったが、取り立てて輝かしく取り上げる記憶でもない。
 次はもう飛行機でいいや、と思った時、視界の端に何かがうごめいていることに気が付いた。

 猫だ!昨日、この駅に降り立った時も見かけたのだが、どうも落ち着きがなく動き回っていたので近づくことはしなかった。しかし今はどうだ、行儀よくカウンターの上にちょこんと座っているではないか。
 どうやらこやつ名物猫らしく、時々バタバタと駅舎のなかを走り回り、落ち着く場所を探しているようだった。あまり人懐っこさがあるような雰囲気ではなかったが、私と目が合っても逃げるそぶりはしない。勇気を出して近寄ってみることにした。
 そっと1メートルほどの距離までくる。猫はずっと私を見つめている。いまのところまだ逃げることも、威嚇してくることもない。
 しかし———なんと端正な出で立ちだろうか。毛色は複雑な模様であるが、どの色もシックで鮮やかな深みがある。何より極地の猫というだけあって、しっかりと詰まった毛玉がふんわりと風体に丸みを帯びさせていて美しい。スッとすました顔もどこか高貴さを感じさせる表情をのぞかせていて、妙に媚びもしない生き様を如実に感じさせるようだった。
 失礼、と尚更分かりもしないであろう人間の言葉で話しかけてパシャリ。しっかりとカメラ目線でいい子だ。警戒はされているだろうが、そのまま姿勢を変えることもない。大丈夫、何も悪いことはしないから安心してくれと、心の中で念じながらシャッターを切った。
 その後数枚ほど収めてから、ありがとう、じゃあなと言ってその場を立ち去る。ひと撫でくらいしたかったが、あの高貴な毛玉様にはそっと構わずにおいた方が良いだろうと考えたのだ。
 「”大天使の街”、なかなか悪くないじゃないか。」
 私はぼそりとそう呟いた。大きな天使に祝福された豊かな街では確かにないかもしれないが、小さな天使に出会えただけでも私は幸せだった。

 「全然悪い街じゃなかったぞ、かわいい天使ちゃんもいて天国みたいだ。」
 思わず私はイーゴルにテレグラムでチャットを送る。心優しいヤツだから、悪くない反応をくれるだろう。私がこの街に行くことを知って本気で憐れんでいたので、日々の小さな希望と祝福に出会えたと知れば多少安心するはずだ。そう思っている間に即座に帰ってきた返事を見て、私は乾いた笑い声を上げてしまった。
 「最悪。オレは猫アレルギーだ。」
 再度ふと猫の方を見ると、警備員にちょっかいをかけられて階段をぴょんと駆け上がっていた。お前もこの街じゃ生きづらいか、と苦い笑顔を滲ませながら、私も続いて立ち上がり上階を目指した。

ВДНХ

 「そんなにマーボーが食いたいなら、そこらへんの中華屋に行けばいいじゃないか。前オレが教えた店、美味かっただろ!」
 散歩好きの親友コーリャも、散々私の終わりの見えない放浪に飽きが見えてきたらしい。申し訳ないと思いつつも、妙なところで頑固で諦めの悪い私は雪道を踏みしめながら強気で言い返す。
 「だからモスクワの店で食ったってシャバいんだよ!あの味出すには自分で作るしかねえんだよ!」
 「何だよそれ、もう中華屋で働けばいいじゃねえか。」
 コーリャが言うことはもっともだ。だが、商学部で勉強しながら自分に経営のセンスがないことは分かりきっている。なおさら3年生の時までバイトしていた飲食店を見てから、特にあの商売だけは絶対にやらないと決めているのだ。
 「まあ確かによ、あの日本人が作ってくれたマーボーは美味かったよ。世界一美味かった。」
 「そうだろ!」
 「そうだけど、コルショップにもスハレフスカヤのあそこにもないんだったら絶対モスクワにはないぞ。そもそも需要が無いんだ、諦めろよ。」
 私はコーリャの言葉に小さく呻きながら足を進める。モスクワでトップレベルのアジア食材店2つにさえなければ望み薄、それもまたごもっともなご意見だった。ただ、それでもあの味がどうしても諦めきれない。それほどの味に出会ってしまったのだ。

 話の始まりは1カ月前。帰国するという寮の隣室の日本人が余った調味料で得意料理を披露してくれたのだ。その名も「マーボートーフ」、豆の汁を固めた「トーフ」とやらものと挽肉を甘辛く煮付けたものだというが、それが信じられないほどに美味かったのだ。
 話によるとこれはもとは中国の料理らしいが、多くの日本人もこれが好きらしい。彼は続けて「ロシア人向けの味付けではないので、少し辛くて塩気が強いかもしれない」と言っていたが、塩気と辛みと甘みと旨味、全てのバランスが取れた味とトーフの独特な食感が織りなす美味しさに、普段は全く進まないコメをペロリと平らげてしまった。
 すかさず彼に作り方を聞いて、メモを用意する。モスクワの普通のスーパーでは材料を揃えるのは難しいから中華屋で食べるしかないかもしれない、と前置きしたうえで、彼は調味料の空き瓶を机に並べた。

 「トーフ、豚の挽肉、ニンニク、ショウガ、緑色ネギ、デンプン。」
 なるほど、ここまでは問題ない。トーフはアジア食材店で買えると言っていた。
 「これがガラスープ、鶏の中国式ブイヨン。」
 塩辛く中華風のスパイスが入ったブイヨンは独特ではあるが、モスクワでも探せばあるかもしれないという。ならこれも大丈夫だろう。
 「そしてここからが問題で、これがトウチジャン、トウバンジャン、テンメンジャン、牡蠣のソース、チリオイル。」
 ここで私はお手上げ状態になった。日本人はかなりハッキリとロシア語風に発音してくれているようだが、流石に聞き慣れない言葉が続く。ジャン、とかいうヤツはだいたいソイ・ソースの仲間らしく、ジャムのようにドロッとしており、ものによってはチリが入っていて辛いとのことだ。
 彼の「ジャンを液体にしたものがソイ・ソースだから、まあヴァレニエとモルスみたいなもんだ。」というどこかしっくりくるような、こないような説明を聞きながら、面倒なのでやはり中華屋で妥協するしかないかと考えていた。

 しかしそれが大間違いであった。どの店にもだいたい「マーボートーフ」ばあったが、どうも味に深みが無く塩辛いだけだった。これはもう自分で作るしかない、そう思って私はあの時一緒に日本人から晩餐にあずかったコーリャを誘って調味料探しに出たのだ。
 調味料は自分が思っていたよりも簡単に見つかった。聞いたことのないジャンとかいうやつも、食材店に行けば他の同じように見たこともないような瓶とともに陳列されていた。ただ一つ、テンメンジャンを除いて。

 「でも確かに、なんでテンメンジャンってのだけないんだろうな。不思議だよな。」
 不満続きのコーリャではあるが、私の歩みには遅れることなくスタスタとついてくる。彼もなんだかんだあの日本人のマーボーに魅了された一人であり、調味料探しにも乗り気ではあったのだ。
 「そうなんだよ!同じジャンなのに、なんであいつだけないんだ。」
 私は大きくため息をつく。昼過ぎから買い物に出た私たちであるが、じわじわと、冬の日が暮れようとしていた。そのどうしても見つからないテンメンジャンというやつは甘いジャンらしく、あの甘辛さを出すには絶対に必要なのだとか。調べると特段レアな高級品でもないらしいが、どうにもモスクワの食材店では見つけられないのだ。
 「しかしВДНХに中国パビリオンがあるなんて知らなかったな。あいつソ連じゃないだろ。」
 「まあ友好国ではあるからな、ソ連ばっかりじゃつまらんだろうよ。」
 雪のなか私たちが歩みを進めるのはВДНХ、全ロシア博覧センターである。旧ソ連の産業を展示する多数のパビリオンで構成され、宇宙博物館などもあるなかなかに面白い場所だ。モスクワじゅうのアジア食材店を探す中で、私はВДНХの中国パビリオンに中華食材店があるかもしれないという情報を目にし、最後の望みをかけたのだ。
 「でも、ここにもなかったら本当に今度こそ最後だからな!」
 「わかってるよ。」
 中国パビリオンはメトロの駅から歩いて一番奥。ここでテンメンジャンを見つけられなかったら、本当に悲しいなんてものではない。なんとか置いてあってくれと、スケートリンクではしゃぐ家族連れやカップルたちを横目に歩き続けた。

 「なあ、元気出せよ。」
 「すまなかった。」
 「オレのことは気にすんな、まあ日本にでも遊びに行けば食えるよ」
 肩を落として歩く私に、コーリャはやけに優しかった。飽きっぽいヤツだが、これだから憎めないんだと、友情をぼんやり噛み締める。
 結論から言えば、テンメンジャンはやはりなかった。なんなら聞いていた中華食材店すらろくになかった。あったのは安っぽい衣料店、電気店くらいで、小さな中国茶店こそあったが調味料とは程遠い品揃えだった。あまりにもがっかりする結末だった。
 「サンミでも行くか。」
 私はふと寮の近くにある韓国料理店の名前を口にした。あそこで食べるマーボーもやはり日本人が作ってくれたものとは大違いだが、他の韓国料理は絶品で時々食べたくなるのだ。
 「いいね、オレ久々にサムギョプサル食べたいんだ。」
 コーリャの言葉に静かに腹が鳴った。そういえば昼飯もろくに食べていなかった。同時に、がむしゃらに歩き回っていたこともあって、ろくに街の姿を見ていないことにここで気が付いてふと足を止めた。
 「どうしたんだ?」
 「いやあ、綺麗だなあと思って。」
 ВДНХの入り口となる門の向こうには、数多のイルミネーションが並んでいる。空を舞う雪がその灯火に照らされて、複雑な色彩を放っている。冬になると何度も見る景色だが、相変わらず美しいものだ。
 「そうだなあ、いや、なんでこれを男2人で見てるんだって話なんだけどさあ。」
 ふとコーリャが煙草を取り出して火をつける。彼が吐き出した紫煙がふわりと空に還り、宝石のようにきらめく景色をぼんやりと滲ませた。
 「かわいそうに。ラーリャ、ドイツ行っちゃったもんな。」
 続けて煙草を取り出しながら私が言った言葉に、ちょうど煙を吸いこんだばかりのコーリャは激しくむせ込んだ。
 「やかましいわ!」
 ムッとするコーリャに私はけらけらと声を出して笑った。コーリャの彼女であるラーリャは、先週留学でベルリンへと旅立ったのだ。今日彼を誘ったのは、その寂しさを紛らわせてやろうという思いもあった。
 「もう今日のサンミはお前のおごりな!」
 「なんでだよ!」
 コーリャの言葉に私はすかさずツッコミを入れる。
 「こんなに歩き回らせたんだぞ、いいだろそれくらい!」
 「お前だってマーボー食いたかっただろ。」
 「でも結局作れないなら同じだよ!」
 再び私はケラケラと笑った。おっしゃる通りだ、確かに当然それくらいの誠意は示すべきだろうと、心の中で深くうなづきながら煙を吸い込む。この煙草も例の日本人がくれたものだ。本当にいつか日本に行ってやろうと、厚い雲に覆われた空を見ながら強く思った。



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