存在

クワインはいう。
「存在するとは、変項の値となることである」

「何か」とか「すべて」といった表現は「宇宙」全体を検索するような働きをする。そう言った表現を含む文は、宇宙全体の中に、ある条件を満たすものがあるかないか、といったことによって真か偽かが決まる。
こうした表現を、クワインは「量化の変項」という。
この量化の変項を使うことこそが、われわれが存在を要請する(存在論的にコミットする)唯一つの方法だと主張する。

「われわれがどのようなものを、存在すると認めているか」

①伝統的な存在論
経験諸科学からはっきりと区別された、哲学的形而上学的思弁によって、決定される。
②論理実証主義者(主にカルナップ)
どの様な種類の物体が存在するのかといった問題は、経験的探究や数学的探究によって答えられるべき「内部問題」。基本的な存在者の種類としてどのようなものが存在するのかという「外聞問題」は、言語選択の問題。
③クワイン
分析命題は「言語選択」の問題。総合命題は、言語を選択したうえでの、本当に審議が問われる問題。この区別を否定。

延長直示

「直示」指で指し示すこと
紫色の者を指さしながら「これが紫だよ」(「直示的説明」)
指さした直線状にあるものは、時間・空間内に存在する具体的・物理的な対象であった、「抽象的対象」ではない。

クワインは、存在論は「二重に」相対的である。という。
理論の対象が何であるのかを述べるための言語。「背景言語」に対する相対性。
指示もまた、同様に、言語間の関係としてしか意味をなさない、「対象はなんであるのか、ある言葉は何を指示しているのか、という問いはどこまで続けても絶対的な答えには到達しないから。と述べる。
指示は、言語の世界の内部の問題である。


クリプキ

原因や結果という概念は、経験において出会う規則性をもとに形成されたわれわれの態度を世界の側に投影するはたらきをもつ概念であると考える。
ヒュームによれば、ある出来事が別の出来事の原因であるとわれわれがいうとき、出来事自体は世界の構成要素であるが、それらの間にわれわれが帰する関係-因果関係-は、本来世界の属するものではない。それは、われわれ人間がその本性に従って必然的に世界に「読み込んだ」ものでしかない。とする。われわれの態度の「投影」であるとする立場の事を「投影主義」とよぶ。ヒューミの懐疑的解決は、因果性についての投影主義の主張であると解釈できる。

懐疑的解決を採用することは、言葉の意味についての言明が、世界にもともと備わっている事実について語る事実言明ではなく、
世界の側に投影されたわれわれの態度について語る言明だと考えること。

クリプキ『哲学探究』において、懐疑的解決から私的言語の不可能性がでてくる点がある。
ひとは、その言語によって、自身の内的経験-感情、気分、などといったもの-を、自身の私的な使用のために、書き留めたり声に出して言ったりするのである。そうすることは、われわれの通常の言語でもできるのではないか。だが、私が考えているのは、そういうことではない。この言語に属する語は、その話し手だけが知ることのできるもの、つまり、その話し手の直接的で私的な感覚を指示すべきものなのである。よって、他人はこの言語を理解できない。

私的言語は、「他人には理解できず、私だけが理解できる言語」のように特徴づけられる。

デカルト以来の近代の哲学は、私的言語の存在を暗黙の前提としてきたと論じられる。
言葉の意味は、それが指す対象であるという考え方
経験は根本的に私的なものであり、自分がどのような経験をもっているかは他人に走りえないこと
という想定がある。
経験について語る言語は、他人には理解することが論理的に不可能な私的言語であるということが帰結する。

クリプキが言葉の意味への懐疑論を、規則に従うことについてのウィトゲンシュタインの考察から引き出したのであれば、言葉の意味への懐疑論はそのまま、規則に従うこと一般への懐疑論にまで拡張できる。
言葉は意味を持ちえないというパラドックスがうまれる。

懐疑的議論に対しての3つの解決案

①クリプキがウィトゲンシュタインの解決という「懐疑的解決」
②「傾向性」という概念に訴える解決案
③話し手の意図に訴える解決案

論理的真理が何に由来すると考えるか

①論理を、思考活動において成り立つ法則とみなす立場(「心理主義」)
②論理を、時空を超えて存在する抽象的対象のあいだに成り立つ法則とみなす立場(「プラトニズム」)

クリプキの仕事が大きな影響を与えた分野、真理論

うそつきのパラドックスに代表される「意味論的」と呼ばれるパラドックスへの対処からうまれてきたものだが、そうしたパラドックスへの決定的回答は、タルスキによって与えられたと信じられてきた。
タルスキの理論を受け入れる帰結の一つは、論理学のためにつくられた言語のような人工的言語でない限り、日本語や英語のような自然言語に関して真理の概念を適用することはげんみつないみではできないということである。
この帰結を受け入れがたい場合、タルスキの理論に変わる真理概念の理論が必要となる。

クリプキは、クワインの哲学に代表される現在のアメリカ哲学の主流とは異なり、自然主義的世界観には反対し、唯物論に根拠はないと考えている。




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