0904経験と分析⑧可能世界

現実世界とは異なる世界「可能世界」

「少なくとも一つある」は、現実世界に存在する対象だけを範囲としている。


この問題に対し、
「様相論理についての意味論的考察」におけるクリプキの対処法は、様相的オペレータが付加される以前のもともとの量化理論の特殊な定式化を用いることによって、標準的量化理論の原則を保存するというもの。
そのほかの解決法には、標準的量化理論に固執することをやめて、(存在仮定から自由であるという意味での)「自由論理」をベースにとり、それに様相的オペレータを付加するという道。
標準的量化理論には二種類の存在仮定がある。
①量化の変域には少なくともひとつの対象が存在するという仮定
②個体定項は必ず変域中のある対象を支持するという仮定
これらの仮定を取り去ったとき、どのような推論が妥当になるかを研究するのが「自由論理」である。
様相量化論理のコンテキストでは、量化の変域は可能世界ごとに変わりうる。
様相量化論理の意味論がいまだにすっきりとした見通しがついてない分野であるのも事実である。その理由として、あまりにも多くの選択肢が存在すること、形式的取り扱いのスムースさと哲学的議論による正当化のあいだのバランスをとる難しさにある。

可能世界は、状態記述というその言語的代替者を通じてのみ、われわれの概念的レパートリーのなかに持ち込むことが許される。カルナップがこのことに固執した主要な原因として、必然性や可能性にかかわる言明の真理性はわれわれによって立てられる言語的規約に由来する以外にはないという強固な信念にある。

可能世界ならびに可能的対象という概念に対する拒否反応が出てくることはあまりにも当然といえる。
現実世界とは異なる可能世界も、現実には存在せず可能的にのみ存在するといわれる可能的対象も、余計な飾りを取り去るならば結局のところ、存在しない世界、存在しない対象にほかならないのでは。
こうした類の「存在者」を認めることは、「存在しない存在者」を認めるという論理的矛盾を犯すことではないだろうか。
仮にこうした「存在者」を矛盾なしに認めることができたとしても、そうした「存在者」に関して何が成り立つかを、われわれはいったいどのようにして知ることができるのか。現実に存在しない対象について経験を持つことはできない相談である。
結果として、それは、哲学がとうに脱却したはずの「経験に制約されない形而上学的思弁の世界」に舞い戻ることになるのではないか。
しかし可能世界の概念を受け入れることで、これまで未解決であったり、きわめて不自然な解決しか得られなかった問題に対し、ごく自然と思われる解決が与えられるという事実があるのも確かであり、浸透した理由ともいえる。

形式言語と自然言語

フレーゲは
無限に豊富でありうる内容を有限の手段で表現するということが、言語によって可能となるのはどのような機構によってかという問いに対し、「形式言語」と呼ばれる言語、その文法と意味論とが明示されている言語を具体的に構成することによって答えを与えた。ただし、論理学において構成された言語は最初のうちは、もっぱら数学における証明を表現するためのものに限られた。このような人工言語は、英語や日本語といった自然言語とは根本的に異なるとかんがえられた。

ライルは、形式論理学とは別に、非形式論理学なるものの必要性を唱えた。「たいていの」「半分」「なぜならば」「たぶん」「かもしれない」など、主題中立的でありながら、形式論理学者には論理定項として認められない表現が、自然言語に多数あることを指摘。
また、完全に主題中立的とはいえないにしても、同様な中立性をもつものとして「その間」「より前に」「より後に」といった表現があることも指摘。

ストローソンによれば、
自然言語に普遍的に存在する文脈依存性を完全に無視している。といい、「私」「いま」「ここ」「これ」といった表現や、過去現在未来と言った時制の表現には、その正しい使用のための文脈的条件を述べる「指示にかかわる規則」が結び付けられている。ことを指摘した。

ライルもストローソンも
自然言語の側面を形式論理学という枠組みのなかで扱うことが不可能なことを主張する。

存在と時制

クワインは、日常的な語り方がどうであるかは、何ら重きを置くべきではない。存在を無時制で考えることは、人間のような時間的存在者を四次元の時空的存在者とみなすことと表裏一体である。と指摘。個々の人間を、ある時点からある時点にわたってある空間的軌跡を占める四次元的「物-出来事」とみなせば、こうした対象は非時間的に存在することになるからである。

様相論理についての可能世界意味論をいくらかアレンジするだけで「時制論理」とよばれる論理学をつくることができる。
時点が異なればその時点において存在する個体も異なるだろうから、各時点に結び付けられる個体領域は自由に変化しうると考えるのが自然。(これが最善であるかどうかはきめられない)
すでに存在しなくなった対象や、いまだ存在していない対象を指示する名前を含む文の真理値をどう考えるべきか、量化子の範囲はその時点で存在する対象だけに限られるべきか、それとも、過去現在未来のいずれかに存在する対象すべてに及ぶべきなのか。という、決定されるべき点がある。
だが、とりあえずここで注目すべきなのは、時制論理およびその意味論は、すべての文脈依存性が形式的取り扱いを拒むわけではないことを明らかにしたという点。
文の真理値や記述名の指示対象が、発話の時点といった文脈的要素に応じて変化するという前提のもとでも、体系的な理論を構成できることを、時制論理の意味論は示している。
こうした文脈的要素を取り込むことによって、時制のみならず、「私」「きみ」といった人称代名詞、「いま」「きのう」「ここに」といった時間や場所を表す副詞、「これ」「あれ」といったいわゆる直示語といった表現を含む文が、形式的取り扱いの範囲にはいってくる。

モンタギューは、文脈依存性をもつ言語に対して形式的意味論の手法を適用する研究を行う。文脈依存性を持つ言語を「語用論的言語」と名付け、そうした言語の研究を「語用論」とよんだ。モリス以来言語の研究を「構文論・意味論・語用論」の三部門に分割することが受け入れられ現代に至っている。
モンタギューは語用論的言語の研究を通じて可能世界意味論の枠組みを一般化し、「内包論理」とよばれるきわめて包括的な論理体系とその意味論を構成した。

到達可能性

様相論理の意味論をはじめとする、標準的論理以外のさまざまな論理に関する研究が、1960年代以降いっせいに行われる。これらの研究は「形式意味論」もっと限定して言えば「モデル論」とよばれる分野に属する。
形式的取り扱いを拒否すると考えられていた自然言語の文脈依存性が非標準的論理の意味論において開発された手法のもとで手なずけることができた。

到達可能性というパラメータを備えた可能世界意味論は、きわめてフレキシブルな分析的道具である。
「…ということを知っている」を一種の様相的オペレータであると考え、このオペレータを含む言語に対して意味論を与えることができれば、それは知識の概念の体系多岐な分析を与えうることになる。ヒンティッカはこのような分析を最初に与えた。
ある一群の命題を知っている者は、それからのすべての論理的帰結をも知っているとすることである。この「非現実性」さえのみこめば、「認識論理」として得られる。その意味論を与えるために、第一に、論理的帰結に関して閉じているような知識が存在している「認識的に完全な世界」の体系を想定し、第二に、それらの世界の間に「認識的代替」とよばれる到達可能性関係を導入すること。
しかし、認識論理が扱うのは、われわれのような限界を持つ認識者ではないということになる。
もう一つ、「「A」が定理ならば、「OA」も定理である。」という「推論規則」を付け加える、「義務論理」の体系がある。「OA」という形の指揮が現実世界wで真であるのは、wにおいて「あるべき」とされる事態がすべて成立している「義務論的に完全な」可能世界、wの「義務論的代替」のすべてで「A」が真となるときであり、「PA」という形の式がwで真であるのは「A」がwの観点からみて義務論的に完全な世界のどれかで真であるときである。

様相論理の可能世界意味論がもっとも劇的な影響を与えたのは、存在論あるいは形而上学においてである。

個体と世界

スタルネイカーは、反事実的条件法の意味論的分析に基づき、条件法の論理を構成した。可能世界に「類似性」という尺度を導入する。可能世界で現実世界ともっとも類似している世界がどれかとするもの。
ルイスは、因果性の概念もここに加えることができるという。
ヒュームの懐疑的議論が出現する以前には、因果性を原因と結果の間の何らかの必然的な結びつきであると考えることが広く行われていたの対し、ヒューム以降、因果性は規則性に解消される傾向があった。
ルイスの提案は、因果性の分析を規則性の概念に基づけるのではなく、「CがEの原因である」を「もしも仮にCが生じなかったとすれば、Eは生じなかっただろう」という反事実的条件法として分析しようというものである。

ルイスの立場によれば「存在する」とは「可能的に存在する」と同義である。(「可能主義」)
対立するものは、「存在する」とは「現実的に存在する」と同義とするものである。(「現実主義」)


ルイスのように、他の可能世界はわれわれの住む世界と時空的にも因果的にも隔絶した世界のことであると考える場合は、可能的対象と認識的交渉をもつことができるのかを気にしなくてよくなる。

可能世界を推論を仲介するだけの道具であるとみなすことはできない。様相的語法を理解する方法としては、ひとつは、可能世界を通じてのもの。もうひとつはメタ言語における様相的語法の理解を前提してのものである。

可能世界意味論は、現実に存在する個体全体のいずれとも異なる個体がほかの可能世界に現れることを許している。

固有名と記述

固有名と記述のあいだの相違を印づけるためにクリプキは「固定指示子」「非固定指示子」を導入する。様相量化論理の意味論にもでてくるが、クリプキ『名指しと必然性』では自然言語に対して適用される。

固有名の使い手がその固有名のもとに理解していること、その指示対象を決定するメカニズムと別物である。フレーゲの「意義」はこのふたつの役割を同時に担うものとされていたが、そうした意味での意義を固有名はもちえない。

カプランは可能世界と時点の組を「情況」とよぶ。指標的表現を含む文に関し、真偽の決定はふたつの段階をふむことになる。
「内容」情況(可能世界、時点)→真理値
「意味特性」発話のコンテキスト→内容
単称命題という枠組みの導入により「直接指示を行う」という特徴づけがおこなわれる。

カプランの影響を受け、固有名の意味論的機能はその指示対象を導入することに尽きると考え、固有名のもついわゆる認知的意味を、本来意味論が扱うべき範囲には入らないと主張する。

しかし、認知的要素をすべて語用論的に伝達される事柄として意味論から排除することは、信念や知識などの命題的態度にかかわるわれわれの語法においても、本来の意味論にかかわる限りでは、同一対象を指示する固有名は自由に交換可能であるという帰結をもつ。


可能世界の功績

可能世界意味論の功績は、標準的論理によって考察の対象から排除されてきた様相的文脈およびそれと類似の文脈を、活発な理論的考察の対象にまでひきあげたこと。
また、必然性という概念を、分析性という概念から切り離したことである。
  必然性=アプリオリ性=分析性
という等式
「分析的-綜合的」という区別をドグマとして攻撃したクワインでもこの等式はあった。
可能世界が基礎概念としてとられることにより、「すべての(到達可能な)可能世界における真理」として特徴づけられる必然的真理は、分析的真理という概念への依存から解放された。






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