0829経験と分析⑤-クワイン「2つのドグマ」-

クワインのいうことばの「使用」「言及」

「富士山」という名前は
・富士山は日本一高い山である。
という文においては「使用」
・「富士山」は漢字三文字からなる。
という文においては「言及」

あるものについて語るとき→その物の名前が「使用」 されている
ある表現について語るとき→その表現の名前が使用され、もとの表現は「言及」 されている


「意味の物化」に対するクワインの反対


①言語表現が意味を持つことを、名前が対象を指すことに同化するもの
固有名「ソクラテス」 ソクラテスを指すことで意味を得る
述語「赤い」 「赤」を指すことによって意味を得る
 述語の意味は、それによって指される性質や関係といった普遍者、籀量的対象である。ということになる。
それに対し、クワインは「名指すことと意味することを混同するもの」として反対する。

名前が対象を指すという構図
すべての言語表現にまで及ぼすことは、ウィトゲンシュタインもいうよう「語の種類のあいだの相違」を無視するものである。

〇「宵の明星」「明けの明星」フレーゲの議論
クワインはフレーゲの論点に賛成し「意味が互いに相違するゆえに、これらの語の意味は、名指された対象とは違うものである」とすべきとする。

〇フレーゲの文脈原理
「語の意味を、それが現れる文というコンテキストから独立させて、それ単独で考えてはならない」を無視したことにより①の「意味の物化」がおこったと考えられる。

語が属すると考えられる文法的カテゴリーの各々について、それにふさわしい存在者を、その語の意味として指定すればよい。また、なっざしと意味との区別を見失わないためには、指示と意味(クワイン)、イミと意義(フレーゲ)、外延と内包(カルナップ)といった区別をたてることも必要かもしれない。
また、文の意味と文を構成している語の意味とのあいだの関係のあり方の明瞭な把握。

②物体とその形とのあいだの関係をこのような仕方で考えることになぞらえることができる。

フレーゲの思想の概念が認識論的に疑わしく思われるのは、フレーゲによって思想がわれわれの認識からの完全な独立性を有するとされているから。

フレーゲ「思想」
「ひとは、物を見、表彰をもち、思想を把握あるいは思考する。ひとが思想を把握あるいは思考するとき、ひとはそれを作り出すのではなく、すでにあらかじめ存在していた思想とある関係に入るのみである。そして、この関係は、物を見るという関係とも、表彰を持つという関係とも異なるのである。」
ウィトゲンシュタイン「言葉は、言葉以前の何かの翻訳なのではない」

③物体に先立って存在する「形の世界」といったものを想定しないで、個々のあれこれの物体からは一定の独立性をもつ抽象的存在者として「形」を導入する方法

フレーゲ『算術の基礎』で「基数」を定義するために用いった方法であり
初期ラッセル「抽象の原理」と名付け盛んに用いた方法でもある

エイヤー『言語・真理・論理』
「われわれがここで、実在する存在者としての命題といった形而上学的教説に荷担しているのでないことは、明らかにしておく必要がある。集合をある種の論理的構成物と見なすこととして、命題を、文のある集合として定義することができる。その集合とは、そこに属する文を理解する者にとっては、どれも同じ内包的意義を有するような文から成るものである。」

カルナップ『意味と必然性』でも言語表現のない方をこのような仕方で定義できることを示している。
クワインは
「意味の問題とされてきたものは、いまや、意味に言及しない方がよい、一体の問題に帰着する。ひとつは、有意味な記号列という概念を解明することであり、もうひとつは、同義性という概念を解明することである。」という
言語表現のあいだの同義性という概念には何ら深刻な問題は存在しないという前提をたてる。しかし「経験主義の2つのドグマ」ではこの前提を攻撃する。

「現代の経験主義は、ふたつのドグマによって大きく条件づけられている。ひとつは、分析的である真理、すなわち、事実とは独立であって意味に基づく真理と、綜合的である真理、すなわち、事実に基づく真理とのあいだに、ある根本的な分割があるという信念である。もうひとつのドグマは、還元主義である。すなわち、有意味な言明はどれも、直接的経験を指す名辞からの何らかの論理的構成物と同値であるという信念である。」

クワイン「経験主義の2つのドグマ」

カルナップを代表とする、論理実証主義者たちの考えには2つのドグマがあることを指摘する。
1「分析的な心理、すなわち、事実とは独立に意味の基づく真理と、総合的な真理、すなわち、事実に基づく真理との間に、ある根本的な区分がある、という信念」
2「還元主義、すなわち、有意味な言明はどれも、直接経験を支持する名辞からの、何らかの論理的構成物と等値である、という信念」
クワインはこの論文にてこの2つのドグマには根拠がない事を示し、それにかわる「ドグマなき経験主義」として「ホーリズム」をうちだす。

この論文では「分析性」の概念に対する批判が論文の半分以上を占める。
分析的真理は「意味だけに基づいた真理」といわれる。
しかし、意味について語ることは、言語表現に関する同義性と分析性とについて語ることである。

分析命題2つの種類

「同義性」(「論理的真理」)によって「分析性」が特徴づけられる関係があると指摘する。「分析命題」には2つの種類があるとまずクワインはいう。
1)結婚していない人はすべて結婚していない。
2)独身者はすべて結婚していない。
1)は論理的真理。論理的真理とは、「そして」「ない」「もし……ならば」「すべて」といった、「論理後」とよばれることばの働きによって真となる命題、論理語以外のことばをどのように解釈しなおしても、真であり続ける命題である。
比べて2)は「独身者」と「結婚」という論理語でないことばの「意味」に依存している。
クワインはこの2)のような命題を主な考察対象においている。

クワインは結局のところ「意味」「分析性」「同義性」「必然性」といった一連の概念がそのうちのどれかに依存しない限り定義できないということを述べている。

第二のドグマ」とよぶ「還元主義」、すなわち「有意味な言明はどれも、直接経験を指示する名辞からの、何らかの論理的構成物と等値である、という信念」が「意味の検証理論」には含まれている。

クワインの批判の焦点は、一つ一つの命題が単独で、つまり他の諸命題とは無関係に、検証されたり反証されたりする、という考えそのものにあてられる。その考えに対する「ホーリズム」の基本テーゼは
「外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、1つの集まりとしてのみ、感覚的経験の審判を受けるのだ。」といことである。

クワインのモデルにおける論理実証主義のモデルからの2つの進歩

①経験的言明の検証が直接的な観察だけに頼ってなされることは、まず皆無であること。
クワインのモデルでは、推論は、経験的言明の正当化において、本質的な役割を果たしている。
②数学や論理に属する言明を特別視する必要がない。

われわれの言語理解は、経験における検証や反証を超えるものではなく、そのことは、数学や論理に属する言明の理解についても同様である。

クワインは2つのドグマを捨て去ることからの第2の帰結として、「プラグマティズムへの転換」をあげる。
ホーリズムは、言語の選択とその言語の中での理論の選択との区別を否定する。


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