0825経験と分析②-分析的綜合的、アプリオリアポステリオリ-

経験的に考えること、分析的に考えること、どちらがいいのだろうといった悩みからはじまったこの長い旅路の勉強。
前回はアリストテレスとヒュームをもとに「必然性」「確実性」について記載した。
今回はカントとミルをもとに考えていく。

〇経験的ではなく、分析的に判断することとは

カント
「分析的判断は、対象に関して、われわれがそれについてもっている概念に既に含まれている以上のものを告げるものではない。分析的判断は、対象の概念を超えてわれわれの認識を拡張するものではなく、ただ、その概念を明晰なものとするのみである」

→認識を拡張するものではなく、前提に既に含まれている概念を分析して結論において繰り返し、概念をより明晰なものにすること。

分析的な方法により、だされた論理的真理は「必然性」があるのだろうか。そこで2つのアプローチを取ったものが現れる。
①必然性の領域を回復しようとするもの
(「綜合的アプリオリ」の概念を携えカントが進んだ道)
②「事実的」知識から必然性を完全に追い出そうとするもの
(経験論の徹底化を図ったミルのとった道)

カントは「分析的-綜合的」「アプリオリ-アポステリオリ」の区別をつくる。そうすることにより4つの区別の区別が存在することになった。
必然的——偶然的
確実——不確実
分析的——綜合的
アプリオリ——アポステリオリ
必然と確実が混同されやすいことは前回にも述べた。


〇「アプリオリ-アポステリオリ」とはなにか。

「アプリオリな認識ということで、われわれは、これとかあれといったある特定の経験とかかわりなしに成り立つ認識ということではなく、すべての経験と絶対に関わりなく成り立つ認識のことを意味する。アプリオリな認識に対立するのが、経験的認識であり、それは、アポステリオリにのみ、すなわち、経験によってのみ可能な認識である」

「アプリオリな認識とは経験に全く依存しない認識であり、それに対して、アポステリオリな認識とは、何らかの経験に依存する認識である」

と、経験に依存する認識と依存しない認識と区別した言葉である。

ここにおいて重要な点は
われわれの認識が「どのようにして」獲得されたではなく、
われわれの認識の「正当化が何に訴えることによってなされる」か
である。
カントは
「pが必然的であるならば、pはアプリオリである」
という原則を受け入れていると思われる。
このカントの「アプリオリ-アポステリオリ」の区別は「必然的-偶然的」と同一のもと結論してもよいとの意見もある。

カントはこういう。
「実際、もし経験がそれにしたがって進行する規則がすべて、どれをとっても、経験的なもの、したがって偶然的なものだとしたら、経験は、自身の確実性をどこに求めようとするのだろうか。」

まさにこの言葉。私が今悩んでいることである。「経験は自身の確実性をどこに求めるのだろうか」。なかなか響く言葉。
綜合的判断は、その正当化が経験に依存しない、しかし認識を増大する判断。アプリオリ(経験に依存しない)であり、綜合的判断が成立する知識の領域を、カントは数学、物理学に認め、形而上学には認めていない。
「必然的でありながら事実的である」知識の理想をその領域においた。

つぎに
徹底した経験論からつながる「実証主義」がミルにより話題になる。
ミルは、命題を
「単に言葉の上の命題」と「本当の命題」
2種に分類
「本質的命題」「偶有的命題」
と呼ばれてきたものと一致すると論じる

「本質的命題とは、単に言葉の上の命題である。それは、特定の名前のもとで[よばれている]あるものについて、それがその名前によって呼ばれるという事実において主張されること、ただそれだけを主張するものである。」
「それは、何らの情報をも与えないか、あるいは、与えるとしても、その情報は、物についてではなく、その名前についてのものである。」
「これとは反対に、非本質的すなわち偶有的命題は、言葉のうえの命題と対比して、本当の命題とよぶことができよう。そうした命題は、命題が物について語るために用いる名前の意義には含まれていない何らかの事実——その名前によって内示されていない何らかの属性——を、その物に述語づける。」

ミルは極端な経験論をうちだす。
論理も、大部分が経験に依存するものであり、矛盾律でさえ「経験からの一般化」。また、「唯名論(矛盾律が言葉の意味に基づくものであるとする立場)」に対し
「言葉の上の命題であるとはみなせない」と述べる。
数学の持つ必然性は経験からの一般化なのか?

カントのだした「分析的-綜合的」という区別はフレーゲにもある。
カントとフレーゲによる「分析的—綜合的」と違う点は
フレーゲは「普遍的論理法則」といい、より論理法則の概念を前提している。

フレーゲは
論理はすべての施行の可能性のための条件

思考するということは、すでに論理に従うということを含まざるを得ない。

したがって、論理法則がなぜ正しいのかと問うことは、こうした問いを立てること自体が施行に属することであるのだから、党の論理法則の正しさを前提したうえで、その正しさを問題とすることとなり、結局、無意味な企てとならざるを得ない。
という思考の筋道をたてる。
また、
「論理法則が真であることの根拠」
「我々が論理法則を真とみなすことの根拠」
は混同してはいけないとしている。

「客観的であって非現実的なものから成る領域」は、
外的世界と内的世界の他に存在する「第三世界」と呼ばれる。

ラッセル『哲学入門』(1912)
「実在すると呼ばれるべきものを、時間のなかにあるものだけに限るのが便利であろう。そうすると、思考と感情、心と物的対象は実在する。だが、普遍はこの意味では、実在しない。それらは存立する、あるいは、存在を有するということにしよう。ここで、「存在」は「実在」と違って、無時間的である。よって普遍から成る世界は、存在から成る世界とも記述できよう。存在から成る世界は、変化を許さず、不動で、正確であり、数学者、論理学者、形而上学的体系の建設者、ならびに、人生よりも完全性の方を愛するものすべてにとって、素晴らしい世界である。実在から成る世界は、流動的で、曖昧で、はっきりとした境界をもたず、明確な計画も配置もないが、そこには、思考と感情の全て、感覚に与えられる与件のすべて、物的対象のすべて、益や害を及ぼしたりできるもののすべて、人生と世界のもつ価値に何らかの影響を及ぼすもののすべてが、含まれている。」

そして、ウィトゲンシュタインはこの必然性の問題に対し「規約による真理」という概念を打ち出す。


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