哲学

哲学では以下の4つの確実なものは何かを考える
-存在の確実性
-認識の確実性
-道徳(行為の正しさ)の確実性
-判断力(真善美を判断する)確実性

ギリシア(イデア、資料形相):プラトン、アリストテレス
スコラ(実在、唯名):トマスアクィナス、オッカム
西洋(経験、合理、観念):ロック/ヒューム、デカルト/スピノザ/ライプニッツ、カント/フィヒテ/シェリング/ヘーゲル
構造論(公理、グラマトロジー、記号):デリダ/ドゥルーズ/フーコー

〇ソクラテス以前の哲学者
哲学者とそれ以外とを分けるものは何なのか
抽象的議論が哲学?→パルメニデスは哲学の祖?

アリストテレス『形而上学』
(1)叙述の形式の変化ではない(パルメニデスらも詩の形式を使っている)
(2)哲学は、詩の内容を明快に表現し直したもの、ではない
(3)哲学は、神や精霊などに言及しなくなったもの、ではない

〇哲学者とされる者たちの他の共通点
古代ギリシア
疑ってはならないものというのがなく、多様な主張が可能であった
「権威が不在の中、数学的思考を足掛かりとしつつ、基盤となるような土台を模索する活動」が哲学?
公的世界における弁論、私的世界における教育と分かれていたギリシア世界で、セミパブリックな空間で哲学を行ったソクラテス

人は誰しも幸福でありたい。幸福になるために、自己のあり方を正しく知りたい。それを探求する過程で、善とは何かという真の知恵を探求する。
自己の探求と知恵の普遍性とを往復するのが哲学(なのだろうか)

〇ストア派
物体主義の存在論
自立的に存在するものを物体と捉えるので、神も魂も物体
人は、目の前にあるものから表象を受け取り、それに基づき判断する。
目の前の杉の木から「これは杉だ」という表象を受け取り「杉みたいだな」と感じて「杉だ」と判断する。
目の前の財布から「これを盗め」という表象を受け取り、判断して実際に盗んだり盗まなかったりする。
こういった、決定論の立場をとる。
決定論に対する悪事を犯してもそれが決定されていたことならその人に責任はないのではという批判に対しては、責任を負うことまであらかじめ決定されているとこたえる。

〇エピクロス派
宇宙全体の中に世界が無数にある、と考える。身体や魂や世界は原始群でできている
人の意志はあらかじめ決定されているわけではない。
物体から剥がれ落ち飛んでくる影像(エイドローン)が目を通過することで、その物体が目に見える。

哲学と宗教は対比されがちだが、哲学は神や超越を扱わないわけではない
プラトン的な「哲学」(理論や普遍性、本質を探る哲学)に対して、ソクラテス的な「哲学」(歴史の中での実践を目指す哲学)があった。

〇ローマを代表する哲学者
ストア派:セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリス
哲学は「生きられる」べきもの
セネカ
ストア派とエピクロス派を折衷しようとしつつも、エピクロス派の快楽主義は否定
エピクテトス
「われわれ次第のもの」と「われわれ次第でないもの」とを分け、後者(財産や名声、健康など)を欲しても自由は得られず、真の自由のためには前者(意志)を正しく働かせることを説いた
ストア派は正当な理由による自殺を認めていた

中世において、論理学は、12世紀半ばを境に「旧論理学」と「新論理学」に分かれる。
旧論理学:古代西ローマ帝国のボエティウスがラテン語に翻訳したアリストテレスの論理学。代表はアベラール
新論理学:12世紀半ば以降、これまで西欧に残っていなかったアリストテレスの著作が入手できる以降の論理学。代表はオッカム

〇ボエティウス
『カテゴリー論』『命題論』『分析論前書』および、『カテゴリー論』の入門書であるプルフェリウス著『エイサゴーゲー』をラテン語に翻訳
『エイサゴーゲー』において、類・種は実在するのか、実在するとしたらどのようにか、という問いが書かれており、これがのちの普遍論争へつながる

〇存在と本質(トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカム)
トマスとスコトゥス:存在と本質の区別が世界の側にある
オッカム:世界の側にその区別はなく人間の観念の中だけにあるものにすぎない(同じものなのだが、動詞的に示すか名詞的に示すかの違いだとオッカムはしている)
トマスとスコトゥスは、形而上学が扱う実在の世界と論理学や認識論が扱う知性の領域が対応すると考える。
それの架け橋となるのが本質であり、本質が両方の領域に跨るものであるという考えをアヴィセンナから受け継ぐ。
オッカムは、そのような考えを受け入れておらず、論理学を形而上学から独立させる。

〇本質
本質がいかに個別者となるかという個体化の原理の問題
人がどのように抽象概念を認識するのかという問題
普遍論争など、様々なところで語られる重要概念

存在と本質の区別するというのは、
「存在がなくとも本質を理解することができる」ということを前提とする
オッカムの場合、存在しないものの本質は無。

〇トマス「情念論」
情念:欲望的能力、気概的能力にわけ、さらに善悪への接近・後退で分類
例えば、愛は善に接近しようとする欲望的能力、大胆は悪に接近しようとする気概的能力など。
11種の情念を分類し、これらを2つ1組にしたり(怒りだけは対となる情念がない)、これらが連鎖していく関係などを論じている。これらが徳概念と結びついて、倫理学の基礎となるという構成になっている。

〇主知主義、主意主義
魂には理性、意志(理性的欲求)、そして感覚的欲求=情念があるとされる。
トマス以後、主知主義と主意主義との論争が起き、主意主義が主流となっていき、徳の座は全て意志と考えられるようになる。
一方、情念においても徳が働くと考えるトマスは少数派であったと述べられている

〇志向性
志向性という言葉は、現代哲学でも主に心の特性を論じる際に使われるが、もとはブレンターノが中世哲学から持ってきた言葉。

アリストテレスは感覚のことを「質料なしに形相を受け入れる」こととし、これを受け入れるのは人などだけでなく、空気や水といった媒体も含まれる。
トマスは、「この質料なしに」というのを「スペスキエスがインテンティオという様態において」と解釈する。
ベーコンは、スペスキエスとインテンティオを同義語としており、スペスキエスは「感覚され得ない形で」受け入れられると解釈する。オッカムはそもそもスペスキエスを否定する、とか。

〇13世紀の実在論から14世紀の唯名論へ
影響として「存在論と認識論の分離」「全体論的哲学から個体論的哲学への変化」が生まれる。

ソクラテス「無知の知」
私にとって知らないことがあるというメタ認知。
プラトン「イデア論」
事物を認識するとき心の中に観念が生まれる。犬を見たときに「犬がいる」と心の中で思うこと。このイデアに実在の本質をプラトンはおく。
アリストテレスはイデア界を認めないが学問の発展のため、
形而上学(形のないものの学問)
自然学(我々が認識できる形のある学問)
にわける。

実在論

普遍(イデアのようなもの)が存在するかどうかという議論が盛り上がる。これを実在論という。
中世ヨーロッパでは神の普遍議論が勃興する。
アリストテレスにおいて存在するのは事物だけ。唯名論(存在するのは事物のみで普遍を認めない。もとからあるのではなく人間が事物を分類し普遍とみなす普遍の後付け。名前を付け、カテゴライズすることで普遍があるように見えるだけという考え)。

オッカムやベーコンの影響からイギリス経験論(経験にこそ一切の知の基礎がある考え)が生まれる。
中世は神谷宗教の否定が不可能でそれらを自明なものとしたうえで唯名論や実在論など神学論争があった。

近代になって学問が自由になるにつれ確実への探求が活発化する。
デカルト「心身二元論」
物に対する認識は正しい、それは神が保証するから。デカルトの哲学は神の誠実を仮定している。
精神と物質を分けた世界観などが影響が与えていく(神の存在の前提あり)

こういった論争を整理していったのがカント
近代哲学の対象は「確実性の探求」
存在、認識、倫理・道徳、真善美に対する判断力の4つが大事とする。
「純粋理性批判」の存在論と認識論は近代哲学に影響を与える。
物自体から認識に至る理性、悟性、感性などについて考え、物自体と認識の過程を精緻化しただけであまりデカルトと変わらない。実践理性批判や判断力批判では仮定が入り込む。提言命令(「~すべし」「~すべからず」)というルールが存在してそれに従うのが人間の行うべきことという仮定が入る。

その不完全な部分からドイツ観念論が生まれる(フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)
物自体を否定し、観念だけがあり、実部と見えるものはある種の障害があるとそれが事物として精神に現れるとフィヒテは言う。
それがさらにシェリング、ヘーゲルとなって、絶対精神や弁証法が存在して世界や存在の法則になっているのだという仮定にものづいた物語が語られる。仮定が入っているので全てフィクションであり、仮定が真であると示されなければフィクション。
哲学は世の中のすべての物事を理解するための説明体系を目指している。
ヘーゲルの体系は世界の成り立ちや我々の内面を理解できるすっきりとした理論であり、その後はヘーゲルを基盤とした研究が多くなる。

ヘーゲルの考えに経済学や唯物史観を混ぜでできたのがマルクス主義
ドイツ観念論のヘーゲルの哲学、フランスの空想的社会主義、イギリスのマルサスの人口論など当時の色々な物をまとめてつくった体系。マルクス主義から共産主義が生まれる。
マルクスの思想:近代批判がある。弁証法的運動法則について語っていない
マルクス主義:エンゲルスがマルクスの思想を広める上で通俗化したもの。弁証法で何でも説明できると考えていた。
マルクスのいう哲学というのは、世界を解釈し、それを啓蒙することで世界を変革しようとするものであり、超歴史的に普遍的に説明しようとする理論。しかし、マルクスはそういう体系を作ることを目指すのではなく、変革の契機とするために批判を行う。理論そのものによって変革はならない。マルクス自身は、政治権力による変革ではなく、社会運動や協同組合による変革を考えていた。

〇存在と認識
存在の確実性
リンゴの存在が確実であると保証するものは何か
手でつかんでいて目の前に見えるリンゴの存在を否定するものは何か
リンゴの存在を否定することなく受け入れる立場を実在論という。
認識の確実性
普通に人間は暮らしていたら実在論者となる。仮に、確実に存在するものがあるとしてその存在を正確に認識できるのか。感覚以外にも記憶や感情思考などの影響を受けて認識は変化する。我々の捉えているリンゴは本当のリンゴなのか。仮定なしに認識の確実性を保証する考え方は現代哲学にはない。目が見えなかったり色盲の人は正確に認識できていないのか?

▼認識対象が事物の場合(石やリンゴなど)
○実体の存在が確実で、認識も正確にできる→デカルト
○存在は確かなもの、認識は理性悟性感性によって存在に関する情報処理を行うため実際の物自体をとらえることができない→カント
○観念(認識)が絶対で、存在は2次的なもので観念が作り出す幻のようなもの→ドイツ観念論
▼認識対象が抽象的概念の場合
石は感覚的にとらえられるが、抽象的概念の場合はどうなるか(心など)存在は確実か、認識は確実か

科学は結果より過程を重視する。方法論が生まれるたびに科学は進歩する。哲学は一旦ヘーゲルで立ち止まるがその後影響を与える方法論が生まれる。

〇実存主義
実存(現実的存在)、実在とは異なる。実存主義では「とは何か」と問うのではなく、「現実的に与えられた状況の中で人間はいかにあるべきか」と問う考え方。現実を切り離して考える正しさは無意味であり、現実存在である人間がどう生きるのが正しいのかを追求する。存在や認識ではなく「どう生きるか、どう判断するか」の確実性を考える主義。

〇ニーチェ
①事物の存在の有無の確実性は問題ではない。
②問題なのは我々が事物が確実に実在してしまうと思い込んでしまう心の働きの仕組みだ。
という問題提起を行い、存在や認識の確実性の探求ではなく「なぜ人間は確実なものを探求するのか」を問う。

「人間の心は自分が望むような確実なものを欲する心の働きがあり、なおかつ自分が願望したものを無意識に捏造してしまう。そして自分がそれを捏造したことを気が付かずにその存在を信じてしまう。それが確実なものとして認識され続ける欲求が心の働きとして存在する」

問題にしようとする人間の心の欲求がある(「なぜ」を求めてしまう心の欲求が人間には備わっている)
ニーチェは宗教、哲学、倫理、道徳はそういったものであると考える。神のような絶対者が存在してほしいから神と宗教を作り、ローマ人に支配されているユダヤ人のルサンチマン(嫉妬)から生ずる思想による逆支配によりキリスト教が生まれたのではないか。真理を作り出そうとする心の働きが問題とする。

〇現象学
フッサール
主体の意識に現れる現象と主観的経験のみが確かなことだと考える。
確実なのは自分の精神に石が認識されていることだけだと考える。
ハイデガー
人間は実存的存在。世界の中で経験されるものは人間にとっての意味を持ち存在同士が意味の連環をなす。人間のために存在する事物の有様を道具的存在という。

構造主義

現代哲学:実在論、構造主義、ポスト構造主義
形而上学:抽象的な世界の研究
形而下(現世界):物や具象的な世界の研究

〇言語学、構造主義
ソシュール「シニフィアン、シニフィエ」
言語とは何か。①表現したいものを表現するためのもの。表現したいものが存在し、言語は二次的なもの。ソシュールはこの考え方を逆転させる。言語が先に存在し、言語によりあらわされるものが存在し得るという発想である。
表現される対象:シニフィエ
表現する道具:シニフィアン
言葉(シニフィアン)をつかい、表現したいもの(シニフィエ)を表現する。シニフィアン優位の考えをだす。言葉なしでは対象を認識することはできないことになる。
言葉とは現実に存在する事物へ張り付けるラベルのようなものであった。この場合対称の事物の存在を確実なこととみなしている。これは実在論に基づいた考え方である。
差異の構造
ある名詞がほかの名詞と異なるのは文字列の違いによって区別されている。また、リンゴと心をわけるのは差異とほかの言葉との関係性である。これを「差異の体系」といった。構造がしっかり構成されていれば、点は二次的に定義できるため構造の方が先に存在する優位性をもたらせる考えをもつ。(構造主義の始まり)
認識される事物や世界、現実も構造主義でとらえられるとした。
レヴィストロースにより構造主義は盛んな理論になる。

〇精神分析
フロイト
無意識を医学に取り入れる。「階層論」(無意識、漸意識、意識は改装をなす。エディプスコンプレックス)
ジャックラカン
構造論を用い実在論とは異なる存在論と認識論のモデルを作る。
「確実なものは何か」「存在とは何か」「認識とは何か」の3つのテーマが中心だった。ラカンは構造主義を用いて人間が確実な存在を認識を行う仕組みを説明するモデルをつくる。
ヘーゲルまでの哲学は実在論の影響を受けたものしか存在しなかった。
ラカンにより実在論影響の理論か構造主義の理論かの二つに大きく分かれることになる。「認識とは何か」という問題に、ラカンは自己同一性の認識がどのように生成するかを構造主義で説明する。

〇ポスト構造主義
人間には存在認識に関して少なくとも二つの見方が可能なことが分かった。この二つだけではないかもしれない。というメタ認知的な考えをポスト構造主義という。

実在:事物が実際に存在している。対象の事物の存在を確実なものとみる。
実存:私以外の事物ではなく私自身のこと「確かに存在するのか」ではなく、「どのようにあるべきか」の問い
実体:実体の存在は確実で疑う余地はない。存在の本質を正確に表している、認識のゆがみが生じていない本質の姿で存在している意味
現前:意識の中で存在感を持って姿を現している事物。

〇実在論と構造主義
実在論
存在:物事には実態が実際に存在するという考え方
認識:正しく事物を認識できる
存在の根拠は認識、認識の根拠は存在
構造主義
関係性の相対の構造。構造は認識対象の存在の有無と関係なく構築でき、何かを理解するのに実体概念を必要としない考え方。
実在論は物があるのが前提、構造主義にはその前提がない。

〇公理主義
「無矛盾」がキー。構造を研究する学問数学。
公理主義は特殊な構造主義。有限個の公理、推論規則が存在し、その内部で矛盾した結論を導かない審議の判定がつく命題を扱う。公理構造内部で構成できる命題が同時に真であり偽であることができないことを「無矛盾性」という。「不完全性」とは形成可能な命題で真偽が決定できないものが一つは存在する状態。完全性とは形成可能な命題の真偽が決定できること。
「ゲーデルの不完全性定理」
公理化可能な理論が無矛盾→証明も反証できない命題が存在する
公理化可能な理論が無矛盾→自身の無矛盾性を証明できない。
ラッセルは「クラス理論」をだし制限を与えれば完全性も担保できるとする。命題論理では無矛盾性も完全性も保証される。第一階述語論理以上の高次の論理学では無矛盾誰ば不完全であることがゲーデルにより証明される。自己言及命題を避けるためラッセルのクラス理論、あるいはタイプ理論というものがあり、完全性を担保するルールがある。

〇ラカン
自我:認識する主体
自己:認識される対象。客体としての自分。メタ認知の自分
超自我→他者 世界と自己の関係
他者→他者’(自我、自己)胸像段階鏡に映った顔を自分であると認識する
イド→他者 リビドーなど精神力の根源的欲求
欲動が見せたくない者は認識していない。
「現実界、想像界、象徴界」
現実界(我々が存在と認識している、唯物論的な見方。我々がいるいないにかかわらず目をつぶっているときも明けているときも世界が存在する)
想像界(観念の中で思い浮かべる世界、世界は観念が生んでいるので現実の世界は存在しないのではないかといった観念論が代表)
象徴界(言語や記号を含めた象徴を操作する精神機能、象徴操作の場)
クラインやピアジェの見方は世界を現実界としかみない。純粋な観念論に近いドイツ観念論のフィヒテやシェリングは想像界だけで解釈している。

〇フーコー、ガタリ
フーコーとガタリは精神医学に文れる分析という概念を提唱する。現前を解体するスキゾ性、現前を生成してそれに騙されるパラノ性にわけて統合失調症の評価を行った。

〇イデオロギー
イデア+ロゴス
イデア(表彰されるすべて、意識される意識されないは気にしない)
ロゴス(ロジック)
認識、観念、概念、認知、哲学、倫理、思想、主義、主張、仮設、理論、体系、構造といった人間が古物を処理する情報処理の仕方や整理の仕方をひっくるめてイデオロギーとよぶ。
現実界(自然そのもの)想像界(意識で表彰されるもの)象徴界(記号として認識されるもの)

〇構造主義、ポスト構造主義
ポスト構造主義の特徴をダブルバインド思考とした上で、デリダ、ドゥルーズ、フーコー、レヴィナス。さらに、その後の展開として、メイヤスー、ラリュエル、マラブー
レヴィストロース
神話や民族などを研究。文化を実在論的な観点から研究。神話で規定されている人間集団の婚姻関係が近親交配を防いだりする構造を発見。
アルチュセール
共産主義やマルクス主義を構造主義化。
ロランバルト
記号論。言語学や文学の研究を含めた言語学。テクスト論、文学の研究をバルトは行った。
ミハイルバフチン
ポリフォニー論。テキストや文学を実在ではなく記号同士の関係性から生じる意味を分析。実在論は意味の実在が最初に存在しテキスト記号はそれを現す道具。
フーコー
文献は補助的なものでしかなく時節に合わない文献はマルクス主義や唯物史観は無視していた。
フーコーは膨大の文献を読み込み精神病、監獄、性の歴史から読み取れる社会構造を立証していった。

〇イデオロギーの再構築
ドゥルーズ

ベルクソンやスピノザを現在の構造から解釈しなおしている。
〇デリダ「再現前」
自分が唯一ただ一人しかいないと考えることを「単一性
自分が時間がたっても不変で存在し続けると考えることを「同一性」とヤスパースはいう。現代哲学では同一性を自明視しない結論が多い
〇デリダ「脱構築」
構築された現前を解体する。
〇差異
構造主義では事物に本質があるという考え方はしない。
事物の内容は他の事物との関係性で決まる。
〇差延
現前に対して再現前があるように構造主義に時間軸を導入する。
我々が現前としてとらえたものも次の瞬間には変化していく。
現前を成立させる構造、際も関係性も変化していく。
ピアジェは時間軸を重視する。(構成主義)

〇ボードリヤール「シミュレーション、シミュラークル」
現代的構造主義ではそもそも存在という考え方がない。

存在というのはある現前が単一性、同一性を保って認識されるときに人間が感じる感覚。それが実体であると勘違いした時にその現前の実体が存在すると間違って解釈する。つまり存在を自明なものとする考え方は間違っていると考える。そういう立場からすると我々が存在すると思っているすべての事物は捏造でありまがい物ということになる。
これをボードリヤールシミュレーション、勘違いして存在していると思っている対象をシミュラークルと言う。現代的構造論の立場では存在していると思える事物、そしてその総体の世界、全てはシミュラークルであり、世界はシミュレーションの世界なんていったりする。

プラグマティズム

反デカルト主義と、事実と価値の区別の否定
パース、ジェイムズ、デューイの3人は古典的プラグマティズム
パースは、デカルトの明晰判明を個人の主観にすぎないと批判
パースが自然科学ベースに考えていたのに対して、ジェイムズがこれを広く応用。
ジェイムズ「純粋経験と多元論」
純粋経験というのは主客未分離での質の感受
デューイは、さらに道徳や政治にもプラグマティズムを持ち込もうとする。実験して検証するのが民主主義。

次に、クワイン、ローティ、パトナムらのネオ・プラグマティズムがあり、最近は、ミサック、ブランダムニュー・プラグマティズムがある
ニューの方は、古典的プラグマティズムの再評価を行なっている。

事実と価値・規範の二分法が、分析哲学の歴史の中でどう変化していったのか。クワイン「経験主義の2つのドグマ」オースティン「言語行為論」によって、上述のような二分法は弱められていった。


フェミニズム

19世紀の女性参政権運動から、ボーヴォワール、イリガライ、第二波フェミニズム、ブラック・フェミニズム、モハンティ、スピヴァク、ウィティッグ、そしてバトラー
「女性とは誰のことか」を巡っての議論の過程。
女性は男性と違う役割がある、ということが生物学的な差異から正当化されてきた言説に対して、ボーヴォワールセックスとジェンダーを区別することで、「女性とは○○だ」と一方的に規定されることを拒むのが、フェミニズムの始まり。
女性とは一体何なのか。イリガライは、この社会では男性との比較において女性というのがカテゴライズされてきたと批判。
男性との比較ではない形で、女性とは誰かを考えることが求められたが、これは、本質主義へと接近する流れでもあった。
このあたりは、ラディカル・フェミニズムにも通底する。
女性として団結するためには、女性なら誰でももっている本質が必要になるのではないか、という考えは第三世界や性的少数者からの批判にあう。
女性の中にも差異がある。
こうした流れで、ウィティッグは「レズビアンは女性ではない」、バトラーは「セックスもまたジェンダーである」と述べる。

「女性とは○○だ」という規定は拒むが、女性というカテゴリーはなくさない。女性の中にある差異を認め、女性というカテゴリーに属する者を拡張しつつ、女性として団結する。ジェンダーというのは、規定することのできないカテゴリーゆえに複雑。


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