「美」

「美学」とは

美の本質や諸形態を、自然・芸術などの美的現象を対象として経験的あるいは形而上学的に研究する学問。aestheticsの訳語である。
古代美学史の流れ
プラトン以前→プラトン(美学の創設)→アリストテレス(美学の確率)→ヘレニズム・ローマ帝政期(哲学的美学の完成)
中世美学史の流れ
教父時代の美学→初期スコラの美学→象徴と解釈の世紀→体系化の時代→中世末期の自然主義美学
近世美学の流れ
デカルト哲学の精神からの近世美学の誕生→自然と歴史→芸術概念の成立→芸術の目的→美的範疇
近代美学のながれ(ドイツ観念論美学)
カント→シラー→ロマン主義→シェリング→ヘーゲル→ゾルガー
現代の美学の流れ
人間主義の確率→芸術の批判的反省→芸術理解の深化

プラトン「イデア」

イデア:存在の「真実の姿」を示す言葉
目の前にある一輪のバラ。そのバラは「偽物」の姿で、イデアにある「真実」のバラのコピーでしかない、というのがプラトンの思想。
現実のバラはやがて朽ちて消滅する「不完全」なものだから「偽物」であり、なぜ消滅するのかはイデアにある永遠不滅のバラの劣化コピーであるからとするのである。
紙に鉛筆で「四角形」を描くとき、かすかな歪みが生じる。不完全な四角形です。写し取る身体機能も不完全であれば、紙自体もいずれボロボロになって消滅してしまいます。
すべてが不完全な世界にいながら、なぜ頭の中では「完全な四角形」、つまり「イデアの四角形」を思い浮かべることができるのか。
プラトンが記した『パイドン』のなかに出てくるソクラテスは、魂の不滅について語った後にこう続ける。

「人間の魂は、どの魂でも、生まれながらにして、真実在(イデア)を観てきている。≪中略≫しかしながら、この世のものを手がかりとして、かの世界なる真実在(イデア)を想起するということは、かならずしも、すべての魂にとって容易なわけではない。ある魂たちは、かの世界の存在(イデアにあるもの)を見たときに、それをわずかの間しか目にしなかったし、またある魂たちは、この世に墜ちてから、悪しき運命にめぐり合わせたために、ある種の交わりによって、道をふみ外して正しからざることへむかい、むかし見たもろもろの聖なるものを忘れてしまうからである。そういうわけで、結局、その記憶をたくさん持っている魂はといえば、ほんの少数しか残らない」

魂の段階で「イデア」を見たことがあるため、この現実界に生まれてきた後も「完全な四角形」、つまり「イデア」を想い出すことができるとしている。魂のときに、より多く「イデア」を目にしていた者、また生を受けてからも真・善・美を追求し続けた者が、より多くの「イデア」を想い出すことができるのだと。
最もイデアに近づいた者が、最も偉大な者である、という思想。
目に見えるバラなどの物質だけでなく、正しさや美しさなどの目には見えない対象にも「イデア」はあるとされ、「美」は『パイドン』にてソクラテスが述べている。

「美の話に戻そう。さきに言ったように、美は、もろもろの真実在(イデア)とともにかの世界にあるとき、燦然と輝いていたし、また、われわれがこの世界にやって来てからも、われわれは、美を、われわれの持っている最も鮮明な知覚を通じて、最も鮮明に輝いている姿のままに、とらえることになった。というのは、われわれにとって視覚こそは、肉体を介してうけとる知覚の中で、いちばん鋭いものであるから。「思慮」は、この視覚によって目にはとらえられない。もしも「思慮」が、何か美の場合と同じような、視覚にうったえる自己自身の鮮明な映像をわれわれに提供したとしたら、おそろしいほどの恋心をかり立てたことであろう。そのほか、魂の愛を呼ぶべきさまざまの徳性についても同様である。しかしながら、実際には、美のみが、ただひとり美のみが、最もあきらかにその姿を顕わし、最もつよく恋心を惹くという、この宿命を分け与えられたのである」

魂の状態の時に見ていた輝かしい「イデア」の世界は、肉体を持った現実の世界でも「美」を通じて知覚することができると言う。
「美」は「イデア」へと繋がる梯子の役目。
「イデア」に近づけば近づくほど、すぐれた人間であるとソクラテスは「パイドン」に対しいう。
生殖行為という本能を越えた「純粋な愛」(プラトニックラブ)は男同士でなければ成り立たない、とされていた時代。パイドンをイデアに近づいた優れた存在であると求愛している文になる。
またソクラテスは愛する者は愛される者より一層「神(イデア)」に近いと言う。愛される者の中に神はいないのに、愛する者の中には神がいるから。
トーマス・マンは『ヴェニスに死す』にて以下のように記す。

「賢者はこの、かつて人間によって考えられた思想の中で、おそらくは最も心こまやかな、最も嘲弄的な思想を語った。憧れというもののもつ一切のずるさ、最も密やかな快楽はつまりこの思想に端を発するのである」

地上にある全ての美はいずれ滅ぶが、イデアにある美は失われることはない。この永遠不滅の「イデア」を求めることが、人生で最も尊いことだ、というのがプラトンはいうのである。

日本の「理性」西洋の「理性」

ランガージュの檻。人間は母語を使ってものごとを考え行動する。文化の中心はそれぞれの文化の言語体系に基づいてつくられていく。

日本での認識能力
「感性」と「理性」の二元モデル
西欧での認識能力
「感性(Sensibility)」と「悟性(独Verstand、英Understanding)」と「理性(独Vernunft、英Reason)」の三元モデル

日「感性」と英Sensibilityは、意味するものが異なる。
Sensibilityを感覚と日本語に訳すことも少なくない。
日本人「感性」の特徴として、西欧文化のように峻別しない「神と人間と自然一体」の独自文化の美意識と調和の感覚が日本にはあるとされる。

▼日本人の「感性」と「理性」
カントの思考モデルの要素は、感性と悟性、理性、判断力(規定的判断力、反省的判断力)で構成される。
「感性」音楽などに接したとき、時間と空間という形式を持つ直感能力で情報(感覚的知覚:印象)を捉えるもの。
「悟性」いろいろな感覚的知覚を分類・整理してイメージを構築する論理的能力

カントは判断力を、悟性と理性を総合する媒介であるとする。
「規定的判断力」特殊なものを普遍的なものに含まれたものとして考える能力
「反省的判断力」特殊なものの中に普遍的なコンセプトを見出す判断力
(反省=与えられた事象をさまざまな認識能力を使いその本質を知ろうとする心の状態とする)(美しさに関与するものといわれる)

カントの考えだと美的感覚はある種の普遍性を持つということになる。

カントの「理性」は、理性が真理を明らかにすることが可能かと問い理性批判を行い、理性の有効性と限界を明らかにし「純粋(理論)理性」と感性的な世界を超越した「実践(道徳)理性」とに分けて説明している。

日本語の国語辞典
「感性」外からの刺激を心で感じとる能力
「理性」ものごとを論理的に考え、正しく判断する能力
「悟性」経験にもとづいて合理的に思考し、判断する心のはたらき

日本人が言う「感性」は、カントの「悟性」の一部を含み、「理性」とはカントが言う「悟性」の一部と「純粋理性」を含んだものにみられる。

日本文化の「理性」と西洋文化の「理性」は異なる部分を持ち合わせるため、多文化の美しさを取り入れることが望まれる。

バタイユ「エロティシズム」

美は主観的なものであり、一般的に語れないと認めたうえで、バタイユは人間の姿について「どれだけ動物から遠ざかっているかに応じて美しさを判定される」と述べる。
エロティシズムは、美と対極にある動物的行為、つまり性行為において発見でき、美と醜のコントラストが強ければ強いほど、そこに生まれるエロティシズムも強烈なものになるといった主張である。
「美」ばかりを求めた西洋の考えとは異った対極主義。
こういった、コントラストの強烈さは、岡本太郎や三島由紀夫にも通ずる。

「人間の時間は俗なる時間と聖なる時間に分かれています。俗なる時間とは通常の時間のことであり、労働の時間、禁止が尊重されている時間のことです。聖なる時間とは祝祭の時間、すなわち本質的に禁止が侵犯される時間のことです。エロティシズムの次元では、祝祭はしばしば性的放縦の時間になっています。正真正銘の宗教的な次元では、祝祭はとりわけ供犠の時間であり、供犠とは殺人の禁止を侵犯することなのです」
「メメント・モリ(死を思え)」

バタイユはこのように生に対して常に目覚めていることに「エロティシズム」を語る。そのためには
「三島由紀夫が行ったように、人工的に悲劇を作り、それに参入する」
「ヘルマン・ニッチュのように、アートによって古代宗教を代用する」
といったアプローチ法があるという。
「生」を眼前に突きつける表現者が人間の儚い記憶に鮮明さを焼き付ける。

その他

〇神経科学
神経美学では、脳には「感覚運動回路」「感情と報酬の回路」「意味と概念の回路」があり、この3つが美的経験を作っていると一説言われている。このことが事実だとし基づけば、美的経験は作品に関する知識を背景とした「概念的な情報」と「感情のリアクション」によって生じるといったことが言われる。(背景知識がなくても美的経験を体験することは可能)

〇今道友信『美について』
では、「美」は基本的には精神の犠牲と表裏する人格の姿であるとする。
犠牲を払うことが「善」であり、その犠牲が規格を超えて大きいことを「美」という。
人間実在の本質は意識であり、意識は時間性に属する。
社会はプロセスという時間性を消去していく構造であり、時間性に属する人間性の消去も知らず知らずに行っていると述べ、芸術体験は現代社会に抗って、人間の真のあり方の基礎を守ろうとしているという。

感覚的に知覚される表面的な美
知性がなければ発見できない深い美
2種の美があり、人間は芸術によって自己の精神を高める事ができるのだとする。芸術は物的な世界を超越する可能性を精神に暗示しているのだろうか。

藝という字の語源は「ものを植える」こと。
人間の精神において内的に成長していく価値体験を植え付ける技である。
芸という字の語源は、「草を刈り取る」ことであり、本来的な意味が変わってしまう。精神の特殊な現象形態の一つとして芸術を考える。

人間の理想は真善美。真は論理学、善は倫理学、美は美学の課題。最高の理想を考える仕事は哲学の課題。美は人間の知性の中に座を占め、知覚の対象の有無に関わらず存続する事を意味する。と、真善美の中で美を最高の価値を有する者として位置付ける。

芸術の時間は、物理的時間性と論理的無時間性を止揚した第三の時間をもち
概念的な認識が到達できない場所を象徴によって暗示するのだという。

「芸術を通して美を考えることは人間の自己理解や自己反省という哲学の本格的な歩みに一致する」 

自己の哲学を一口に示すと「美の教え」である」と述べたプラトンの『饗宴』の思想に基づき、理性を通じて作品との対話をおこなうことこそが作品の解釈だと考え、作品との対話を通じて美的価値の理解が成立すし、そのように芸術を通し美を練習することによって、私たちは生き方の美を学んでゆくのだと主張している。


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