0823「経験と分析①-必然、確実-」

最近は「経験とは何か」「一個人の信念に基づいた一般的規則の名称における、信念の検証可能性はどうなのか」なんて考えることがある。どこまでその経験や、必然とおかれている一般的規則に懐疑的態度をもつのか、頭がぐるぐると回ってしまう。

①経験的に考える②分析的に考える

という2種の考え方があるとして、どちらに信頼性をおこうか、などと少しばかり悩むわけである。経験的に考えることは、経済的だが間違えを起こしやすいだろうな、しかしその個人に依存した経験に意味されたものは果たして信頼性のないものなのだろうか、などぐるぐる止まらない。

そこで少しずつそういった「経験主義」「規約主義」というものを追うことにした。まだまだ勉強途中であるが、以下覚えておこうと思った事を記す。

まずはじめに
様相(モダリティ)とは、「必然である」「可能である」「偶然である」といった言葉によって指されるものの総称のことである。

〇論理実証主義がもたらした2つの貢献
①数学や論理に属する命題がわれわれの取り決め(規約)によって真であるという規約主義
②命題の意味がその検証条件によって与えられるという検証主義 
①がいかにして成立し、いかにして解体したか(「規約主義」の成立)ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』が成立に深く関与しクワイン一連の論文が解体に深く関与した。規約主義の解体のあと、1950-1970まで、クワイン「全体論的言語観」が大きな影響力をもつ。その後様相についての新しいアプローチが開拓されていく。それが「可能世界」という概念を導入したアプローチ。クリプキ『名指しと必然性』(1970)以来広く認識されるようになった。

規約主義(ウィト)→全体論的言語観(クワ)→可能世界(クリ) の順序
だろうか。

普段の生活では帰納法を信ずることが多い。事象から一般化の規約をつくる。しかしその一般化された意味は別の意味を持っていなかったという保証はない。「正当な根拠を持たない考えを軽々しく信じるべきでない姿勢」をもつ哲学的懐疑論が生まれる。

ある事実があったとき。ある事実が事実であることを承知の上で、そうではないことはできなかったのかという態度をとる。
事実が「そうあるしかなかった」→「必然的であった」
事実が「そうでないこともできた」→「偶然的である」
「必然性」「偶然性」といった概念が支配的であったアリストテレスの時代。ここ最近においても「アリストテレス的本質主義」としてそんな態度が復活している。

アリストテレス
「論証的知識は、必然的な原理から由来する。なぜならば、知られるものは、別様にありうるものではないからである。」
科学の第一原理となるべきものは、それが扱う類に関して必然的に成り立つものでなくてはならない。演繹は必然性を保存する。(=演繹的推論においてその前提の全てが必然的真理であるなら、その結論も同じく必然的真理となる。)
アリストテレスが構成する科学は、それに属する命題のすべてが必然的真理から成ることになる。しかし、「経験科学」が必然的真理から成っていると考えるのは難しい。
どのような基礎的な法則であっても、別の法則が成り立っていたかもしれない。それが真となるのは、偶然的であり、必然的ではないのではないだろうか。

〇古代の哲学における重要な問い
[古代]「世界とは何か」「存在とは何か」といった存在論、形而上学的問
[近代(デカルト等)]「われわれは何を知りうるのか」「何が確実に知られうるのか」といった認識論的問い

この変遷により、アリストテレスの「形而上学的必然性」はすたれていき、われわれの認識にとって歌が言えないという意味の「確実性」という概念が登場するようになる。
「必然性」と「確実性」は混同されやすい。

「私は存在する」ということは、決して必然的ではない。
私が存在しなかったことは十分可能である。
だが、私の存在の偶然性とは無関係に「私は存在する」は、そのような考えをいだく者にとって確実な真理。確実な心理は、必ずしも、必然的な心理である必要はない。

〇必然性の概念がもたらした変化
必然性を
①論理や数学に関わる必然性
②自然にかかわる必然性 の二種にわけることが一般化された。
自然についての必然性は、何よりもまず、自然法則の必然性のこと。


ヒューム
「Aという種類の事象がBという種類の事象の原因である」
という形の主張の根拠は
・これまで常にAどいう種類の事象が観察されたときに、Bという種類の事象が引き続き観察されたということでしかない
・過去において観察された規則性が、将来においても観察されるであろうと考える根拠がどこにあるかと問、そうした根拠はどこにも見出せない
と指摘する。
・観察されたものは、事象間の規則的継起に過ぎず、個々の事象とは区別されるような、事象間の「必然的結合」といったものが観察されたわけではない
・過去において観察された規則性が、明日にも破られるという可能性は常に存在する。(後にミル「自然の斉一性」とよんだものを信ずることが合理的であるか否かと問うこと)

自然において必然性が存在するか が問題ではなく
そうした必然性がわれわれの認識において然るべき位置をもちうるか が問題
そうしてアリストテレス的必然性の概念は、ヒュームの議論によりすたれることになっていった。


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