時間( ˘ω˘)

▼事物を認識する2つのやりかた

-絶対的な認識
事物のうちに身を映し、事物についての単純にして直接的な直観を得なければならない
-相対的な認識
これは事物について人がとりうるもろもろの観点を再構成することによる、あるいは事物を吉の言語に翻訳してくれる記号や象徴による、外からの認識。

時間は、古代では「永遠の動く似像」(『ティマイオス』)であり、
近世では、実在への固有の権利を獲得へと移行していった。

古代は、「永遠本位」の枠組みのうちにあった
ロゴスが、イデアが、思考の思考がアプリオリに上位の位置を占めていた彼らにとっては時間問題は、「なぜ永遠があるのか」ではなく「なぜ時間があるのか」というその必然性を示すことであった。
プラトンは哲学的な正当化をすることはできず、神話的な語りに依拠した。
時間の存在に初めて理論的な正当化をわたしたのはアリストテレスである。
「最完全者を定立すれば不完全者も定立したことになる」という「因果律」の導入によるものであった。

アリストテレス

時間は運動ではない。しかし時間は運動なしには存在しない。ゆえに、時間は運動の「何か」(属性)である。そして最後に、その「何か」が「数」によって補填されることによって「前後に関する運動の数」という定義が提示される

〈前後〉は運動のうちにある。そして、〈時間〉とは数えられうるものであるかぎりでの〈前後〉である。

そのようにいい、アリストテレスは〈今=時間〉が時間の単位となることによって、「運動の数」つまり〈時間〉が数えられうるのであるとする。

空間化された時間表象では、2つの〈今〉が同時に存在するという矛盾した事態が生じる。が、アリストテレスによれば、両端の2つの〈今〉は「時間の限界」としての〈今〉ではなく、時間知覚の「基体」となっている運動の局相として析出される限界に他ならない。こうして〈今=時間〉がアリストテレスの記述に即した概念であることが確認できる。しかし、この時間了解が機能するためには、形而上学的な飛躍ともいうべき自然観・宇宙観が要請される。

▼〈減算的生成〉モデル

完全者である永遠から、不完全者である時間を得るには「マイナスを足す」必要がある、という次第である。
時間が永遠のうちに潜在的に含まれていることは示せても、なぜそれが実際にできなければならないのかの必然性が示されていなかった。

プロティノス、ヌースという従来最高位を占めていた水準の上位に、新たに「一者」の水準を設定し、時間が現実に生み出される根拠を与えたとされる。プラトン、アリストテレスにおいては、最高位は「存在」であり「知性」であったが、プロティノスの一者は「知性より高次のもの、存在より高次でさえあるもの」とし、プロティノスにおいて、初めて意識が哲学史に登場する。

ベルクソン

近代では、古代から引き継いだ伝統的な「体系」の枠組みの中から、次第にそれを超え出る「直観」が声を上げ始める。
▼数学者ベネデッティ
運動の記述において、空間に還元できない次元が、彼においてはじめて数学的な形で直観される。「運動とは全面的に空間的であるのではない」と述べた。
ベルクソンにとって時間を論じることは〈意識〉を論じること、〈自由〉を論じることと切り離せない。
ベルクソンはプロティノスの意識理論を構成する三つの概念を順番に検討する。第一は「随伴」第二は「共感」第三の「把捉」がある。
意識はボトムアップの統一とトップダウンの分割との合流点に位置する。

古代永遠モデルを脱却するべく、意識と自由の問題をアプリオリに排除してしまうことのない時間のモデルが模索されたのだとベルクソンは言う。

「静止」が見かけ上の雄態的なものでしかなく、実在世界は「運動」だけで構成されているという。

▼アリストテレスとベルクソン

アリストテレスにとって「運動と静止という対立」そのものが「実在たる永遠」との対立において虚構側に置かれていたのに対し
ベネデッティ、ベルクソン、は運動こそが世界の実在的構成素であり、静止は認知的虚構であるという配置転換が生じている。
ベネデッティは運動を純粋に広がりを持つ外延的なものとしてではなく、ある側面からは内包的で強度的なものとして、内部を持つものとして考えている。
アリストテレスは、プラトンと異なり形相も運動変化を分有しているだけ不完全とされるが、その理由で、形相は「内在」である。
プラトンのイデアが「超越」といわれるのは、時間内変化から完全に超脱しているからである。
意識が「内的」であるとか性質が「内在的」であるとかというが、その時、これからが空間的な意味でないことを明記しておかなければ、意識の問題において道を誤ることになる。

ベルクソンは世界の構成素を静的な諸事物としてではなく、環境との相互作用としてモデル化している。
人が何かを空間的事物とよびそう扱うのは、こうした諸作用の海の一領域について、時間的遅延を無視できるとき、同時と見なせるときである。時間の方が実在で、空間とはその理想化された断面にすぎない。静止をいくら集めても運動にはならない。物質の持続から、途中に様々な段階を挟んで人間意識の経験する持続まで、内的リズムによって区別される多くの持続の様態が共存する。という持続の多元論を中心にベルクソンは時間を位置づける。

バシュラール

バシュラール『瞬間の直観』は、ベルクソンが唱える「持続の直観」「時間を持続の流れである」に対し、「時間とは、ただひとつの現実、今この瞬間のことである」と相反する意見を持つ。バシュラールは、瞬間の本質は、その多様性と非連続性にあると述べる。
この時間の非連続性は、アインシュタインの相対性理論や量子力学等の科学の功績により現れたもの。

「私たちは、アインシュタインの客観的な持続に関する批評によって、独断的な夢から目覚めた」『瞬間の直観』
「相対性は私たちに時間の多元論を示した」『持続の弁証法』

時空間にまつわる多元論は、純粋持続という概念をくつがえすが、
時間の単一性の潜在的な可能性を否定するものではない、とする。

量子論においては、
時間の流れは分節化されている。そして軌道の連続性は、素粒子物理学によって完全に破綻した。現実は、私たちの観念的な指標の周囲で揺れている。時間は、量子をほとんど使わずにきらめいているのだ」と言われており、時間は伸縮するエネルギーのかたまりとみる。
その非連続性のイメージは、実際に私たちが体験している時間の中にある。
確かな現実性は、精神的、感情的、生理学的、そして何より想像的なもの。
記憶は、個々の人生を構成しているかけがえのない決定的な瞬間を再現する。
そうした瞬間は情動と共にあり、「心の年表は壊すことができない」のだという。

バシュラールは、
時間の思想の中に原始的な直観の影響が続いていることを発見。
それは想像の産物である水の流れ、その音といったメタファーによって、思想に作用している。
「身近なものに心からの友情を与える」術を理解する人間であったバシュラール。こうした時間性が人生を構築すると考え、まず水平的時間、それから通常の時間、垂直的時間、自己の時間を切り離した。

▼水平的時間と垂直的時間

①水平的時間:時計が示す時間
-社会の枠組みや習慣による時間
-すべての外的統一性、社会的要因(個々の記憶は集合的記憶に基づき形成される)
-現象の様相(事象を表す時間)
-生命反応(心拍)などの時間性もあたる。
この非連続的な時間は、本質的にはリズミカル

「持続するためには、そのリズム、体系化された瞬間と言ってもいいが、それに信頼を置かなければならない」『持続の弁証法』

そして個々の生活は、リズムあるいは
「習慣によって穴の空いた状態となった非連続的な瞬間」の集合によって階層化され、安定を保っている。

②垂直的時間:上に向かって湧出する瞬間であり、増幅したエネルギーのかたまり。この瞬間は、反対・補足・友愛の三方向へと向かって流れる三角の形をする。
この垂直的時間における入口は、詩。
詩的瞬間は、感情の交錯という垂直性を凝縮する。
▼「後悔の微笑み」
バシュラールの言う「後悔の微笑み(regret souriant)」
二つの言葉の間に、時間的な因果はない。微笑みと後悔、衝突する二つの感情の揺れは、互いを損なうことなく、存在を感じ合い、共鳴し、また調和しながら、歓迎の意識を高める。詩的イメージに到達した精神力動的な時間は、ろうそくの炎にはっきりと現れる。
その炎は、力学的、感情的な両義性の中にも、垂直的時間を描く。という。

「テーブルの上のろうそくの炎は、ぼんやりと夢見るような垂直な動きである。その炎はしっかりと垂直に昇るが、同時に儚い。ひと息で炎は揺れ動く、だが再び元に戻る。上に昇ろうとする力で、その威厳を取り戻すのだ」『蝋燭の焔』

同時的、連続的な水平的時間と垂直的時間を、
バシュラールは砂時計とろうそくというメタファーを使って引き合わせる。バシュラールはその二つを結びつけることを熱望した。

「瞑想する哲学者の部屋のイメージを再現してみよう。ひとつのテーブルの上に、ろうそくと砂時計が置かれている。共に人間の時間の中にあるものだが、いかに違っていることか!炎は上へと立ち昇る。下へと落ちる砂より軽く、炎は時間そのものであるかのように自身を形づくり、つねに何かを為している。炎と砂時計、平穏な瞑想の中で、これらは時間の軽さと重さの間にある親交を表している。私の夢の中で、彼らは、アニマとアニムスの間にある時間の親交について語り合っている。私は時間の夢を見たい。時間は経過し、飛ぶように過ぎ去る。もし私が、空想の部屋の中で、ろうそくと砂時計を結びつけることさえできたならば」『蝋燭の焔』

語用論的時間

時間の直示
時間の直示においては、
現在のみが現実の世界であり、実体を持っている」と考える。
現在は過去の要因から形成されたものであるから、過去は記憶の一部として現在の中に残っている。だが、それ以外は実態を失っている。現在の要因が未来を形成していくので、意図もしくは予想という形で、未来は現在の中に芽生えていると考えられる。現在は過去と未来の接点ということにもなる。

▼時間移動型と空間移動型

「明後日」は明日の後の日と記す。
なぜ、未来が「後」になるのか。
時間の流れは、語用論的にはふたつの立場がある。
①時間移動型(空間固定)
②空間移動型(時間固定)

①時間移動型:時間が未来からやってきて、現在を通り、過去へ去っていくという見方

「来年」は未来から「来る年」であり、
「去年」は過去へ「去った年」である。
過去の時間は現在字を通り越して「マエ」にあり、未来時は現在時の「アト」に控えている。

「天地(空間)は万物の逆旅(ホテル)であり、光陰(時間)は百代の過客(通行人)である」
芭蕉『おくのほそ道』

このような、空間は固定したホテルのようなもので、時間はそこに宿泊する旅人であるという時間論は、「時間移動・空間固定」の立場を表明している。

②空間移動型:「過去からきて」「未来へ去る」のが空間移動型の見方

三日先に入学試験を控えています
「三日先」と未来について「先」と言っている。

一般には時間移動型の表現が多い。
しかし、空間移動型の言い方も用いられる。
1)今後ともよろしくお願いいたします
(未来が後で時間移動型)
2)これから先よろしくお願いいたします
(未来が先で空間移動型)

▼談話の直示
英語の時間的直示はnow,thenの2種のみ。thenが未来を示すか過去を示すかは文脈により判断する日本語は「この時」「その時」「あの時」とつかわれる。

久野(1978)
「それ」は、話し手か聞き手の一報が知っているか、体験したことを指す(一方知識)
「あれ」は、話し手と聞き手の両方が知っているか、体験してことを指す(共有知識)

▼直示的動詞
「いく」:話し手がある方向へ向かって移動する行為
「くる」:話し手に向かってあるものが近づく移動行為

過去の事柄:話し手側に視点があれば「イク」
      聞き手側に視点があれば「クル」
未来の事柄:聞き手側に視点があるので「クル」
過去については、話し手の視点は聞き手側に入り込むことができるが、未来については、聞き手側の視点しか許されない。

現在時における話し手の位置こそ現実の世界であり、話し手が知覚し意識する主観の確信点である。現実化するものは「クル」になり、実態を失うものは「イク」となる。「生まれてキテ、死んでイク」

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