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22’0321 寂しさに飢えている君の声は喉元を通った

一体いつまで私はこの元気のなさを更新しつづけるのだろう
夜になっても朝になっても心の傷みはつづき続け、不安が募るシーソーゲームに打ち砕かれそうな毎日が常時目の前にあった

とんでもないコマ数のすごろくシートを勝手に広げられてはスタート地点に立たされ、そこから前を見れども数えきれないコマ数に途方に暮れるような日々

腐食したリンゴを眺め、歯形のついた赤に反する黒く傷んでいる部分が在り続ける。最近、心を見ようとすると、そんな傷んだリンゴを見ているように眺めてしまう
一時的な痛みではなくて、腐ってしまっている
腐食してもうおいしくは戻り切らない蛆虫が集いそうなあの黒い傷んだ部分、そんな傷みがここ最近ずっと思い浮かぶ
新しいリンゴが現れることはあるのだろうか


朝になるとそんな傷んだリンゴが私の心を映すようにあらわれ
夜になると何もない空っぽなものからただひたすら出すこともできない涙が溢れ出ようとするものがあらわれる
空っぽで空洞なのにとめどなく水分を出そうとしている、そんなアンビバレントな共存がより一層苦しめてくる
空っぽ。なのにとてつもなくこころは泣いていて、物悲しさがあふれんばかりに「さみしいよ」って私に操れない私が飼ってるこころが子どものように語りかけてくるよう

かなしくて、ふあんで、いつまでも苦しさが離れてくれなくて

癒しがほしいよ

って、何度も叫んだ。こころの中が

今までそんな息苦しさを救ってくれていた読書が今の私では頭の処理がうまくいかないことで余計に私を苦しめてしまうものになってしまった
美味しいものを食べても無情で、触れられない空気のゼリーを体内に押し込めているみたいに満足感というものが一切運ばれてこず食事が終わる

自分の人生でずっと呼吸となっていた読書でさえ苦しめるものになってしまったのは滅多になくて
なんでこんなに頭が使えないんだろう、と毎晩私の頭のポンコツさに言葉にならない声をあーあーと言い続けている
頭が回ってくれなくて、処理がうまくできなくてあーという声がおさまらない時がある

今書いているこの文章でさえ読み返すのを控えたいほどに文字を見ることをためらう

なんだか14歳くらいの私が現れてくることが多い
思春期みたいな悩みが今頃になって苦しめてくる
対人恐怖症になった私は未だにどうやってこの恐怖を和らげたらいいのかわからない
数年付き合い続けても未だに身体の震えは止まらないし、呼吸は乱れてしまうし、ずっと心が握りつぶされているような不安に1日の大半が食い潰される
美味しくなさそうなリンゴがずっとそこにある

読書が使えなくなってしまった私は、
前から好きだったコーヒーやチョコレートを以前より大量に摂取するようになった
不安を紛らわすために吸っていた文字の山をコーヒーやチョコレートで紛らわすようになった
食べても3日に一粒くらいだった以前の自分とは違い、毎日朝も晩も6粒ほど食べないと不安に押しつぶされ立つことも苦しくなってしまうようだった
今までに見たことのない量のチョコレートを摂取し、今までに味わったことのないほど本が読めなくなっていた
日々、過去の私が遠くなるのを感じさせられる

ただ、そんなポンコツな私ですら話しかけてくれる人がいて、優しいことを言ってくれる人もいて
むしろそうやってダメな状態でもちゃんと価値がある存在と思っていいんだよと教えてくれる期間なのかもしれないと、今はただひたすらこのポンコツ期間を自分で自分のことを否定しすぎないで「まぁそんなこともあるよね」と流しては頑張りすぎないことを覚える期間なんだと、ダメな自分を肯定する時間として捉えるようにし、遅すぎる時の流れで生きている

3月は「儚い」というものが何かを知った
自分自身がそのように形容されることも度々あったが、一体どういうものなのかわかっていなかった
少し前に儚いと思える人をみて、光の三原色が集まった白の光を感じた
白い光に包まれるが故にうっすらと消えそうで見えなくなりそう、しかしながらその白は三原色が集まってできた光で、たくさんの色が詰まっている人に見られる白の光なのだと思った
何もない空っぽの白なのではなくて、たくさんいろんな表情をみせる白なのだろうと
「儚い」と思える人を見た瞬間にそう感じた

もしかしたら自分もいくつかの色を秘めているのかもしれない、そんな肯定につながった体験だった
私にはこのようにまだ学べていない語がある
人に触れた時に感じる人を表す言葉の意味を体験するたびにまた、自分の色を見つけられるのかもしれない
対人恐怖症ではあるが、そんな色を見つけられる体験が私が私自身を肯定する治癒行為に変わるのかもしれない
私はまだまだ檻の中なのかもしれない

他にも、今までに感じたことのない感情が沸き起こった
「癒しがほしい」という叫びもそうだが、「愛されたい」と心がつぶやくようにもなった
正直なところ愛されたいだなんて他人任せで嫌いな言葉ですらあったのだが、どうにも心のつぶやきがオートマティックにおこるようになった
どうせこんなもの過去の欠乏の訴えでしかない
リンゴについているあの歯形のような過去に大きく何か欠乏したものに対して、ヘルプミーと言っているようだ
愛されたいではなく、失ってしまったあの人と話したい
そういった願望の勝手な書き換えのようにも思える
そうであれば他人任せなのではなく、過去の自分が苦しかったよという訴えに過ぎないゆえ、過去の自分が泣いてるんだねと「愛されたい」と心がつぶやいてくる時は「苦しかったんだね」とセルフよしよしを行いつつ、なるべく今に目を向けれるように、ほったらかされていた過去の自分を「悲しかったんだね、つらかったんだね」と労って過去の自分の悲しみをほったらかさないように構ってあげている

そんなふうに毎日元気のなさを更新していた
そうして以前より苦しむ人の声が伝わるような体験がいくつかあった
「お願いだから頑張りすぎないで」と私を抱きしめては代わりによしよしして涙を流してくれる人がいた
なんだか漫画みたいだった
そんないくつかの体験を味わったからか、
寂しさに飢えている人の声に味がするようになった
耳でも目でもなく、喉元を通るようになった
誰かの寂しい響きが私の喉元を通り
空っぽな中に入っては食事をしているようだった

「どこかつらいね」という何気ない侘しさを帯びた口から出た言葉にキスを重ねてその人の体温と微熱を感じるような味だった
喉元を通った言葉が愛されたいというこころの呟きを抑えては過去の私を慰めてくれるやもしれない
真相はまた明日の私に尋ねるほかなく、
心の満たしが生まれることをぼーっと待ちぼうけては、長いすごろくシートを1マス1マス寝そべりながらも怠惰にごろごろと。ごろごろごろごろごろごろと、チョコレートの摂取が多すぎるのも、筋トレをあまりにもしていないこともごろごろごろごろごろごろと、


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