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22’10新しさのない毎日、愛される学習、エンドロールのクレジット


アイスコーヒー、卵、スープ、ブリオッシュ
サラダもあれば

かわいい形のパンケーキがつくれる機械で量産された小麦粉の塊たちを緑の葉っぱと合わせて
それらしい

他にも、サンドメーカーがあると薄めの食パンにいくつかの具材を挟んで、悩めばチーズとハムを入れておけばよくて
メーカーで入れたエスプレッソにお湯を足してアメリカーノにして
簡単にそれらしい

なんだかそれはそれでいいんじゃないかってものができる
お湯なんてケトルのスイッチでポンだ
なんて虚しいほど簡単なんだ
スマホに触れる気分と変わらない
インスタグラムのあの四角い写真のフレームを思わせる食たちが並ぶ
こんなところにまでテックにハックされている

浴びきったハックにやみそうになる

最近、不倫する人の気持ちがわかった気がする
何の変哲もない、そこにある毎日が幸せを示唆するとわかってしまうことに、未来予想が途端に平坦になってしまうのだ。平凡である私に予想ついてしまう未来
そんなものを取っ払いたくなるのだと思う
なんともいえない、この平坦に刺激を味わいたくなる
変わらない毎日が続いてしまうことより、毒のような逸脱を臨んでしまう

不埒だ

ところで私は自分のつくった料理を誰かに食べさせたいと思ったことがほとんどない
そんな好きでもない料理の練習を日々嫌々行なっている
料理をつくっていて楽しいと思ったことなど一度もない
ましてやそんな料理を誰かに食べさせたいと思えたこともない
ただ、おいしそうな食卓には憧れる
そんな理由でだけでつくっている
自分の料理はたいして美味しくない
だからといって、他人の同世代がつくった料理が対して美味しいわけでもない
手料理なんてのは、食べるのもつくるのも何も楽しくない
手料理を信仰する幻想など捨ててしまえ
家庭のあたたかみ、ただそれだけの想像妊娠と変わらぬ幻想がつくりだした悦楽

だからといって出来合わせのものを食べるのもなんか癪にさわるのだ
どうせならある材料からなにが作れるか練習しておこう……そんな気持ちなる
出来合わせのものはどこかケミカルに感じる
一定の美味しさはあるけど、どこか囲われたような担保された味がでてくる
ボンタンアメについていた食べられるフィルムみたいなものを想像してしまうものがある

ただ、そんな私にも
なぜかわからないけど「この人にならご飯食べてもらうのもいいかも」と思える人がうまれた
おそらく、なにを出したとしてもこの人ならという安心ができたのだろう

その人は毎日連絡をくれる
時刻を知らせるように、「今日のわたし」を挨拶とともに報告してくれるのである
わたしはまだ半袖を着ているというのに「寒い季節になってきたので体調には気をつけてください」としつこいぐらい心配してくる
一時期は、おはようと共に今日の体調はいかがですかと体調チェッカーを行ってたくらいだ
そんなことよりもうヒートテックを着ている自分のことの方を心配しろよ、と思ってしまうが
寒くて体調崩しそうなのはそっちだろ、と突っ込みたくなるが心配なのはわたしの方らしい

毎日やってくる報告に3日に一度はまともに返事をしようとしている
本来ならば毎日送ることができればいいのだが、これだけ体調を心配されるぐらいなのだから無理をしてサービス精神で日々送り続けるのも本末転倒だと感じるから
無理をしていないという意味で無理に送らない
毎日欠かさず送られてくる日報のようなそれは、明らかに幸せを感じさせる
そうだと思うのだが、ふと、その安心は控えめにしたくなるのだ

刺激


ほわほわとした平坦な道から抜け出して、心が躍るような人に振り向いてしまう
おそろしいぐらいモラトリアムだ
精神的な未熟だ、と感じた

安心できる人といれば、わたしは傷つかないだろう
料理を人に食べてもらうのも落ち着けるようになるかもしれない

だけど、なんとなく
私自身にかわいいと褒めてくれる人に刺激を感じアドレナリンが湧く
それこそが愛されることの学習なのではと、私が浴びてこなかった魅惑の褒め言葉を自然に浴びさせてくれる環境にいることの方が学習できる気がすると、そう思ってしまう
何となくそれらしい、それらしいからだ
インスタに載るハッシュタグじみた朝食が美味しそうだと思えてしまうからだ


でも、ふと思った

もし最終エンドのクレジットロールに乗るとしたら「安心」と「刺激」どちらなのだろう
クレジットに載るのは「安心」だけかもしれない
あんな退屈が結局は最後に載せてしまうのだと


不埒なんていつだって削ってしまえばいい
インスタの四角いフレームみたいに

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