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生きる意味

ヴィクトールフランクル『夜と霧』
強制収容所から奇跡的な生還を果たしたユダヤ人の精神科医である。

フランクルはいった。
「苦難と死は人生を無駄にしない。そもそも苦難と死こそが人生を意味あるものにする。」
「幸せは、目標ではないし目標であってもならない。そもそも目標であることもできません。幸せとは結果に過ぎないのです。」
「そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり我々が人生の答えを出さなければならないのです。」

フランクルは、
人生の意味をめぐって病的に悩むひとをどのように癒すか
を生涯考え続けた。
困難続きの不安の続く今に、将来に希望が持てないというひとは世界にあふれている。
何もできなくなってしまった者をどう癒すか、人間の生きがいとはなにか、人生とは何かという問いを『夜と霧』では、書かれている。

アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学』
「アドラー心理学」の名称で親しまれているユング、フロイトに並ぶ心理学の3大巨頭である。

アドラーはいった。
「人は目的のもとに生きている、幸せになるには勇気を持つ」
「性格は変えられる」「トラウマなど存在しない」

アドラーは人間の悩みを総じて人間関係の悩みととらえる。
過去の原因ではなく未来の目的を重視
人間は自分自身の力で人生を意味づけできると考える。
従来、フロイトに代表される心理学では、「人間は、過去の経験が原因となって今の行動が規定される」とし、環境の影響を免れることができない存在とみなしている。(「原因論」)

アドラーは、
私たちにとって客観的な世界はなく、全て色眼鏡を通してしか見ることができないという「認知論」を提唱。トラウマや過去の体験に支配されているという原因論を批判し、人間は目的を変え過去を意味づけなおすことで人生を変えれるという「目的論」、性格を柔軟なものととらえ、いつでも選びなおせる「ライフスタイル論」を唱える。
いつでも「この瞬間」から人生を変えることができるというポジティブな人間観をもつ。
どのように生きていけばいいのか、対人関係や内面との向き合い方を『人生の意味の心理学』では書かれている。


アドラーによれば
私たちは他者に認められたいという「承認欲求」をもち、例えば反抗する子どもは「劣等コンプレックス」を抱いているという。
〈他者と比べて自分が劣っている〉と感じ、優越性を持ちたいという欲求が生まれる。「自分で自分を好きになれない」という劣等感。
これは「客観的な事実」ではなく、他者との比較から生じる「主観的な解釈」ととらえる。

劣等感は他者に対して攻撃的に。
行動を理解するためには、人間関係において「何を求めているのか」を明らかにするのが大事だ、と
フランクルはこのアドラーのやっていることに重要と認める

行動を理解する際、
「何が求められているか」という「目的」の次元へ注目することは、行動を適切なものへ変えていくことにとって有益という。
(一般的に行動傾向を変えるためには原因よりも目的を指摘する方がよいとされる)
しかし、フランクルはアドラー心理学を「狭い」と批判

「人間の悩みを総じて人間関係の悩み」と捉えるアドラー。
フランクルは、これでは捉えることのできない「世界観的な」タイプの悩みが存在していると指摘。

「劣等感や権力をめぐる悩みにかかわる」というよりも、
「世界と自己の形而上学的な関係にかかわるもの」

例えば
「どうせ死んでしまうのに生きていて意味はあるのか」という、人生の意味をめぐる悩み。
アドラーは、人間を〈他者との関係を思い悩む存在〉と捉える。しかしこれでは、人間関係を超えた「世界観的な」悩みに対しては、アドラー心理学ではうまく対処することができない、とフランクルは指摘。

フランクルは
人生の意味に悩む者に対し
「あなたの悩みは実のところ隠れた劣等感から生じています、それゆえ、他人を気にせずに前向きに・勇気をもって生きるとよいでしょう」といった
アドラー流のアドバイスより、「内在批評こそが必要だ」主張。

アドラー流のアドバイスでは、その問いが発せられた精神的な次元を放棄することなのかもしれない。

人生の意味をめぐって病的に悩むひとをいやすためには、
そのひとの悩みへ正面から向き合う必要がある、と。

人生の意味を問う問いは
「劣等感から生じる無益な問題」なのか、これは本当に問題に向き合ったものなのか。

人間は人間である以上こういった問に立ち悩む。

自然科学の教師が授業中に、
有機体の生命は(人間のそれも)結局はひとつの酸化過程であり、燃焼過程にすぎないと得意になって説明した。
すると、突然一人の生徒が立ち上がりこういった。
「それではいったい人生はどのような意味をもっているのでしょうか?」
この青年は、人間が、机の上に置かれて燃えていくロウソクとはちがう仕方で存在しているということを正しく理解していた。

人間は、ロウソクなどと異なり
「義務」の存在を察知することができ、「義務」と共に生きている、という点がある。
ロウソクが燃えるのは決して「燃えるべきだ」という義務からではない。
ロウソクはそもそも義務とは無縁の世界に存在する。
人間は〈行為する人格〉ロウソクなどの物はせいぜい〈運動する物体〉であり、ロウソクにおける物理‐化学作用には「義務」の概念が適用されないのだと。

また、「義務」は個人の状況に応じて多様に変化する。
「人間一般にとっての義務」なるものは存在せず、存在するのは個々の状況における個々人にとっての義務だけだとのこと。

「義務」は個人の状況に依存する

自部鵜の義務を知るには、自分の内部に。目を自分の外部へ向けて、自分の置かれた状況を知る必要がある、という。
「自分はいま何をすべきか」問うことは
「自分がいま置かれた状況がどのような義務を自分に課しているか」を問うことだと。

義務があるところには必ず責任がある。
しかし義務は君の行動を強制しない。行動を選ぶのは自分自身であり、に従うか否かは自身の責任にもとにある。

フランクルは
人間を「責任を負いうる存在」という。
人間は人間である限りつねに何かが自分次第だと。

「人生の意味」の答えを教えてくれるのは誰だろうか。
人生が自分に教えてくれるのか。教えてくれても自分がそれを「私にとっての意味」と認めなければ、それは無意味に終わる。

「人生の意味」を問い、内面に向き合い、外面の状況を把握すること。
そうやって向き合って考え意味づけを行い人生に意味を与える。

その過程に「人生の意味」は潜んでいるのかもしれない。

極限状態であっても、人間は「創造する喜び」「美や真理、愛などを体験する喜び」がある。生きる希望は与えられた運命を引き受け、どんな状況でも一瞬一瞬を大切に。幸福を感じ取る力を身に着けることで、外面的な状況もバネにし成長が生まれるのかもしれない。


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