fog.


fog1

首から血が流れている。血だと仮定する。首から流れている何かを。視界が白く霞んでいる中で、赤い色だけが美しく光る。鮮血。赤い絵の具のようにも見える。手で触って確かめたい、と思う。(おそらくは)私の首から流れる(おそらくは)血なのだから、諸々の所有権を持つ私が触ってもなんら問題は無いはずだ。しかし手は上がらない。もうそんな体力は残っていない。痛みはそこになく、何かが溢れ、流れている感覚だけがある。不思議だ。例えば泉はおそらく、こんな気持ちなのだろう。白く濁った視界の向こうには特に何も見えない。空気が湿っていて、冷たい。霧だ。霧が立ち込めている。スーパーマーケットの野菜売り場、葉物の並ぶ棚にミストが音もなく降っている。その光景を思い出す。鮮度が保たれるのだそうだ。よく似た状況の私も、鮮度は保たれているのだろうか?笑おうにも、そんな体力はどこにもなかった。こぷり、と首から血が溢れる音がした。


fog2

……というわけで、お姫様は王子様と幸せにくらしました。めでたしめでたし
お姫さま、良かったねえ
うん、良かったわね。さあもう寝る時間よ、右目を閉じて
えーまだねむくないよ。それに右目だって閉じにくいよ
だめだめ、今日はもう眠らなきゃ。小さな子供は眠る時間よ、はい左目も閉じて
うううん……だってまだおひるだよ、ひるの12時だよ。なんで今日は寝なくちゃならないの
今日はねえ、霧の日だからよ。おそとはみーんな真っ白なの。わかる?
でも霧の日はなんでおひるから眠らなくちゃならないの?
なんでかって、うーんそうねえ……
ぼく眠くない。それに、今寝ちゃったら、もう起きられないきがする
ふふふ、そんなことないわよ。ほら、とにかくおやすみ。大丈夫、ずっと×××がそばにいますからね。おやすみ。おやすみ。おやすみ。


fog3

霧の日ってさあ、妙に眠くなんね
ああ。今日とかマジめっちゃ眠い
大学休みで良かったよな
だな
あ、今日提出のレポートあれどうする?
明日でいいんじゃね
明日霧晴れっかなあ
さあ……前の霧の時はどれくらいで晴れたっけな
ええ、思い出せん。2日か3日じゃね?
そんなに長かったかなあ
確かさ、あれだ、寝てたんだわ。寝てたから覚えてねえ
俺も寝てたな
目が覚めた時のこと覚えてる?
覚えてね
俺も。いつ目が覚めたんだっけな。不思議だよな
実は今この瞬間も夢だったりしてな
ははは、んなわきゃねえだろ。ところでさ、そっちの霧の濃度はどんなんよ
えー?なんかピンクっぽい色してる
お前絶対夢だよそれ


fog4

フォグランプが点かない。年に一度の点検はしっかりとしていたはずなのに、大きな欠点も指摘されなかったはずなのに、フォグランプが点かない。普通のランプは普通に点くから、それだけでもまあ走り出せるが、どうも少し心もとない。強めの黄色いランプなら、白く濁った視界の中でも対向車によく目立つ。無論、こんな日に対向車なんて滅多に出会わないのだけれども。
気を取り直して、もう一度運転席に座る。そう、今までのは時間つぶしである。間を置いてもう一度試そうという作戦。人差し指に力を込めて、思いっきりランプボタンを押し込む。かちり。白い霧に、濃い黄色の光がぱっと浮かび上がる。やった!一度切って、エンジンをかけてからもう一度ボタンを押す。鮮やかなイエローが、白い空気をぼんやりと照らす。良かった、実はもう一度点かなかったらどうしようかと思っていたのだ。
ベルトを締めて、ギアを入れて僕は静かに霧の中を走り出す。
とっくに、行き先は忘れてしまったけれど。


fog5

霧の夜に眠りたくないのは、夜なのに景色が白いからなどではなく、単純にいやな夢を見そうだからだ。私の眠るベッド、それを囲む小さな部屋、内包する丘の上の家を、霧は音もなく囲っている。私は霧に閉じ込められる。
知人に話したら、何を言っているのだと爆笑されてしまった。霧なんて、あんなうちわで扇げば消えそうなものを、何をそんなに恐れているんだ、と。
もちろん霧をうちわで扇いだことはないけれど、しかしそれは私に顔のない大きな蛇を想像させる。真っ白い蛇だ。彼は、私の家を、部屋を、ベッドを、そして私を閉じ込めている。息の詰まる感覚。重い風邪を引いた時のような。耳の奥でちりちりとしたノイズが鳴り響くような。微かな音に耳をすませる。そこにメッセージを見つけようとする。強く目を瞑る。ずっとそうしていたい。外は何も聞こえない。私の中だけで、ノイズは細く鳴り響く。ずっとその音を聞いていたい。そうして私は、霧の中に閉じ込められていく。不快なんかじゃない。永遠の、幸福に近い。私はそれが、何よりも怖い。



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