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テレビシリーズ一周のみのライトファンが『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』を観た

2021年7月、友人からいきなり布教LINEがきた。

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レヴュースタァライトのことは名前すら知らなかったが、彼女にはゴン薦めしたハイローを観てもらった恩があるので、義理堅いオタクはすぐその日に観始めた。

無料期間中にギリギリで完走し「ああ、観てよかったな」と勧めてくれた友人に感謝したのであった。

~完~


とはならなかった。

夏が終わって秋、10月。

友人から池袋で劇場版が再上映しているという連絡がきたので一緒に観に行くことにした。

友人とその友人の2人が良い座席を確保してくれて、総集編の追加シーンを観ていないというと上映前にロビーでスマホを使いそこだけ観せてくれて、「ハンカチを出しておいたほうが良い」「とにかくすごいから」「いや、あんまりハードル上げすぎない方がいいか?」などと言いながら3席のうち一番中心に近い席に座らせてくれて、手厚いもてなしを受けながらついに上映開始。

結果、ハンカチは必要だった。

びしょ濡れだったのでマスクの替えも必要だった。

栄養価の高い初見の感想を聞きたい2人には申し訳なかったが会話の半分くらいは「良かった……」「すごかった……」しか言えず。

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帰宅後即劇中歌アルバム2枚を購入し、壁打ち用ツイッターアカウントを作り、次の週末に2回目を観に行った。


今までは監督の公式インタビューや友人からポロポロ聞く話以外は他のファンの人たちの感想・考察をあまり見ないようにして自分の中で反芻していたので、色々読みに行く前にこのnoteを書いて一区切りつけようと思う。

色々なところに話が飛んで読みにくいと思いますが、よかったらお付き合いください。


この世には一生かかっても網羅できないくらいたくさんの物語がある。

人それぞれ好き嫌いがあるけど、最近は「わかりやすさ」に重きを置いた作品が圧倒的に支持されている気がする。

わかりやすい作品は台詞でテーマをそのまま喋らせたり状況を説明したりするので、作者の言いたいこと表現したいことが、子供を含め誰にでも、間違いなく届くという良い点があるだろう。

でもせっかく物語という形式をとるのなら色々な方法でテーマを魅せてほしいじゃないか。


『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』は今の流行のようなわかりやすい作品ではない。

より広い範囲の知識があった方がより解像度高く楽しめる、鑑賞者に厳しい作品である。

でもこれは「鑑賞者が理解できると信じてくれている」作品とも言える。

(上映中絶え間なく自分の中の蓄積した知識や経験の引き出しがすごい勢いでガシャガシャ開けられるので、鑑賞後の疲労感がすごい)

そしてそれだけではなく、シンプルに歌が良い。画面が良い。演出がすてき。音と画面がバチッとはまって、観ていて気持ちがいい。

私の中にいる「赤ちゃんの私」も「大人の私」も大満足させてくれる映画なのだ。


何の科目だったかも忘れてしまったけど、物語にはfスモールエフFラージエフが必要だと大学時代に教授が言っていた。

fスモールエフというのは心情のことで、これだけを描いたのでは物語は物語たり得ないと。

Fラージエフというのは実際に起きる事がらのことで、これがあるからこそfが変化し、またfとFがあってはじめて物語が成立するのだと。

他人に興味が持てず毎日つまらない(f)主人公が、飲食店の備品を壊してしまい弁償のために働くことになって料理をすることになり(F)、食べた人が喜んで「ありがとう」と言ってくれて(F)人との交流に楽しさを見出す(f)みたいな……。


またさらに昔、小学校か中学校の国語だったと思うのだが、先生が「登場人物が悲しい時、泣いたり『悲しい』と言葉にするんじゃなくて、雨が降る。これが小説というものなんだ」と言っていた記憶がある。

この「雨が降る」をここでは勝手にf'スモールエフダッシュと定義する。

登場人物の心情に寄り添った、現実に起きている事がら、という意味で使用する。


テレビシリーズを観ている時に「幾原監督作品とちょっと似ているな」と思ったのだが(そして後からレヴュースタァライトの古川監督は幾原監督の弟子と知った)、たぶんf'スモールエフダッシュがすごく非現実的でただの映像的な比喩表現なのか実際に起きていることなのかの境目が曖昧なところが似ていると感じたのだと思う。

f=トップスタァになりたい。

F=聖翔音楽学園でレッスンを受け、皆で『スタァライト』の劇を完成させていく。

f'=キリンのオーディションに参加する。レヴューシーン。ななちゃんの願いによるループ。


そこにさらにイコノロジー、クラシック音楽や古典文学など観る人に教養を要求しまくってくるのでわ~めっちゃ難しいよ~という印象が残る。

ただ一回観て咀嚼しなるほどこういうことかと腑に落ちた状態でもう一度観ると、意外とストレートな台詞や歌詞もあるということに気づいた。

「わかりやすい」がもてはやされる時代に、鑑賞者を信じて多彩なアプローチで伝えてくれた作り手の方々にありがとうを伝えたい。


考察をするほどの頭もないし、あまりにもディテールを見すぎて全体のテーマの素晴らしさをいきいきと感じられなくなるのも残念なので過度に突き詰めて考えないようにしたいという気持ちもあるが、一つだけそれらしきものを。

何回か出てくる華恋ちゃんがひかりちゃんを抱きかかえる構図は明らかにピエタを意識しているし、野菜のキリンは疑いようもなくアルチンボルドの絵だ。

これらは「マニエリスム」時代の作品で、美術史の流れとして次に来る時代は「バロック」なのだ。

おそらく先にトマトのモチーフがあってワイ(ル)ドスクリーンバロックという言葉があっての制作陣の遊びかなとも思ったが、マニエリスム=マンネリズム(惰性)というキーワードはかなり重要だと個人的には捉えている。


テレビシリーズが挫折からの再出発だとしたら、劇場版は成功からの再出発。

学校とは不思議な空間で、中にいるとそこが全てのような気がしてしまう。

課題劇スタァライトを成功させて、最高学年になって、下級生への指導もしっかりできて、じゃあその後は? と。

皆そこから自分の中のモヤモヤに各々ケリをつけ、学校内での成功というある意味マンネリの状態から覚悟を決めて、死から再生するのだ。


また劇場版では「ひかりちゃんと舞台に出逢った華恋ちゃん」と「聖翔学園99期生の華恋ちゃん」の間の時間がはじめて描かれている。

ひかりちゃんに関する情報や話を見ない・聞かない・調べないと言いながら演劇に没頭する華恋ちゃんがどことなく影がある描かれ方をしているが、これはひかりちゃんとの約束がまだ生きているかという不安の他に、マンネリも一要因なのではないだろうかと感じた。

もちろんその時々で舞台に立つ楽しさはあったとしても、何年も会っていない友達との約束だけで常に新鮮な気持ちで何かを頑張り続けられる人は少ないと思う。


だからこそ昔の友達やキラミラに象徴される「普通」を燃やして、二人の約束の手紙も燃やして突き進んで、一人の愛城華恋として再生産するシーンの爆発的熱量に号泣してしまう。

アニメシリーズでキラめきを失いそうなところを留まらせた二人の約束が、その先で枷になって、でも最後のセリフで終止符を打ってさらにその先へ行くところまで見せてくれるなんて、やっぱりすごい作品だ。


もしまだ続きが見られるなら、舞台に立ち続ける子と舞台を降りる子を描いてもらえたら嬉しい。

ななちゃんのキャラクター造形について「『この舞台が永遠に続いてほしい』と思う子が一人くらいいてもおかしくないと思って作った」という監督のコメントがあったが、何かしらの理由で途中で舞台を降りる子がいてもおかしくないと思うので。


最後に好きなキャラの話をします!

私はテレビシリーズからずっとまひるちゃんが一番好きで、それは5話がめちゃくちゃ良かったからです。

華恋ちゃんを好きな気持ちがどういう種類の好きなのかは正直自分にとってはどうでもよくて……でも一番好きな友達を取られてしまった寂しさや怒りはかなり多くの人が理解できるのではないでしょうか?

もちろん私も、わかります。

狭い学校の中、狭い人間関係の中、一番の友達が自分から離れてしまうというちっぽけだけど悲しいくらい切実なテーマと、明るい曲や可愛いスズダルキャットのコミカルな演出のギャップにすっかりやられてしまいました。

変に(暗黒微笑)みたいなキャラクターではなくて本質があたたかい女の子なんだという終わり方も素晴らしく、映画ではやっぱりまひるちゃんのシーンで一番泣いてしまいました。

まひるちゃん大好き。


散文をここまで読んでくれた人ありがとうございました。

劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト、最高!!!(東京都・会社員)

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