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神戸・板宿の夢

権現さん、ごきげんさん


神戸の板宿は、馴染み深い街。

私が神戸で過ごした
八年間の幼少期には、
毎日のように母と二人で
買い物に通った商店街。

父が休みの日には、
商店街を抜けて山へ登り、
海まで見渡せる眺望を楽しみ、
帰りに駅の山陽そばで
立ち食いのハイカラそばを
食べるのが楽しみでした。
(ハイカラそば=天かす入りそば)

父親は田舎育ちなので、
街の暮らしに疲れた時に
私を誘って山を歩いては、
癒しを求めていたのでしょうか?

母が倒れたのも板宿でした。

買い物の帰りに突然
苦しみ始めた母はうずくまり、
幼い私は泣きながら
どうすることも出来ません。

まだ幼すぎた弟たちは
母を覚えてはいません。

板宿での楽しい思い出も、
辛く悲しい思い出も、
両親が他界した今となっては
私しか知らない記憶なのです。

その私の一番古い記憶に、
路面電車が走っています。

板宿駅から大きな通りを走る
路面電車を覚えています。

何かのお祭りの時でしょうか?
いつもの路面電車の車体が
色鮮やかな花で飾られた
お神輿のような姿で走る
『花電車』
それを家族そろって見たのが、
私の最も古い記憶なのです。

そんな話をしてみても、
今まで誰も共有する方は居らず
あれは私の夢だったのかな?
そんな気さえしてきます。

どなたか、古い昔の板宿を
ご記憶の方はおられませんか?

あの華やかな『花電車』を
見た覚えのあるお方は、
ぜひお知らせを頂きたいです。


それから、板宿ではなく
須磨区になりますが、

板宿から妙法寺川沿いに
少し下ったところにある
證誠神社
通称、『権現さん』

その境内にあった
須磨の宮幼稚園に
通った思い出をお持ちの方。

思い出話をしたいです。

先日、参拝した時には、
幼稚園の面影は無く、
この境内で運動会や
鼓笛隊を行ったなんて
信じられない小さな場所でした。

担任の村井先生、
とても良く覚えています。

境内に佇んで、
(あそこに登り棒、こっちに砂場
そこには滑り台が…いや、
あっちだったっけ?)
などと、鮮やかだけど
遠すぎる記憶をまるで
地引き網のように
手繰り寄せて過ごしました。


あの大災害の朝、

離れた田舎で思った事は、
そんな記憶の数々でした。

間もなく生まれる長男を
この身に宿した私には、
テレビから流れる辛い現実を
悪夢を見る気持ちで見つめるしか
それしか出来ませんでした。


それから、どんな思いをして
あの街は復興して行ったのか。

我が子が当時の私くらい
育ったある日、
私は彼らの手を引いて、
権現さんまで参拝に行きました。

山奥の家から車と電車で、
子供たちには、初の遠出です。

不安を宿しつつ、近所を歩くと、
幼馴染みのお母様と
出会うことが出来ました。

お変わりないそのお顔と、
ご家族も無事とのお話に安堵し、
しかし、あの後の避難生活や、
歪んだご自宅の再建など
ご苦労の様子を聞きながら、
一緒に涙を流しました。

私が住んでいた借家は、
きっと倒壊したのだと思います。

場所は辛うじて判るものの
建物は面影もありません。

生まれ変わった、懐かしい街。

今は社会人として、
この街で暮らす長男は、
あの震災の年に生まれました。

訳もわからず、母に連れられ
遠い神社までお参りに来た事も、
知らないおばちゃんと母が
話しながら泣いていた事も、
彼は全く覚えていません。

その彼が、この街で仕事に就き、
部屋を借りて住むことになり、
母の想い出との架け橋となる。

何か、私とこの街には、
消えそうで消えない
不思議な絆があるような、
そんな気がしてなりません。

気付けば、家事をしながら
口ずさむ事があるのです。

♪明るい子供の須磨の宮
みんな仲良し幼稚園♪
(私立 須磨の宮幼稚園 園歌より)

あのベレー帽の制服を着て、
皆で歌った歌でした。

YOASOBIもよく歌うのですが、
食器を洗いながら口ずさむのは、
幼いあの頃練習をした、
幼稚園の歌だったりするのです。




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