失敗という名の地下鉄に乗って⑤   ~そしてドーパミンは流れ出す~

おはようございます。劇団昴の三輪学です。

さて中学生編です。

ちょっとその前に小学生に逆戻り。

実は私の通っていた小学校には、芸能人が一人いました。
子役としてバンバンTVに出演していました。
NHKの朝ドラにも出演していて、給食の時間に教室のテレビでみんなで観たりしたこともありました。

彼とはクラスも別で、友達付き合いもなかったと記憶しています。

その彼も同じ地元の中学に進学しました。

何がどうなったのかまったく覚えていないのですが、
入学してすぐ、部活の体験入部に、その彼と連れ立って一緒に演劇部に行ったことがありました。

たぶん、同じ俳優として、仲間意識があったんでしょうね。わたしに。

甚だしい勘違いですけども!

こっちはただの学芸会俳優ですよ。

でもね、ほんと怖いですよね、根拠のない自信って。

もうね、悪魔の子です。

それもね、ほんとに演劇部に入る気なんてさらさらなかったんです。

どうだ、今年入学の二大スターの登場だぞ。
この中学にいるんだぞ。
ほらほら、欲しいだろこの逸材。

って思ってたんですね。
あ、彼はたぶん別ですけど。

悪魔の子に「おい、ちょっとからかいに行こうぜ」ってそそのかされたんです、たぶん。

で、体験入部で発声練習なんかさせられて、
先輩おねーさんに、「もうちょっと腹式で、こういうふうに」なんて言われて

(お前に、何がわかるんだよ。)

とか思ってました。ほんとすんません。おでこ擦り付けて謝ります。

彼、今はどうしてるのかなぁ。
ちょっと当時の名前で検索してみましたが、子役時代以外の情報は出てきませんでした。

当時の埼玉県都市伝説に、『運動部に3年所属していないと、高校受験時の内申点が下がる』というものもあり、
わたしは軟式テニス部に入部します。

ここでひとつポイントなのは、自分の才能(があると思っている事)に酔いしれていた私ですが、
将来俳優になろうなんて、この時点では微塵も思っていなかったってことです。

この当時はアレです、縄文時代です。考古学者になるのが夢でした。

学業と同時に『身体表現の会』への参加も続けていました。

夏休みには合宿も行われ、山間部の民宿でみっちり稽古いたしました。
当時の大人たちは、どちらかというと夜の飲み会のほうが楽しみだったように思い返しますが。
そのときの参加者に日本大学芸術学部のタカヤマ教授がいらっしゃいました。
どうやら大師匠はこの教授に指導を受けたことがあったようです。
師匠の上の大師匠の上の、巨匠ですね。
大師匠は私に言いました。
「日芸行って、そのあと劇団入るのが役者の王道だぞ。巨匠の話をよく聞いておきなさい。」
王道かどうかは定かではありませんが、そういうルートがあった、あるのは確かなようです。
でも、当時の私は役者になろうなんて思っていませんからね。
あー大学かぁ。行けたらいいなぁ、ぐらいの感覚だったと記憶しています。
むしろ悪魔の子ですからね、あーこのまま巨匠に気に入られて、役者になっちゃうのかな、俺。
まいったなぁぐらいに感じていたような気がします。

その『身体表現の会』が、たしか1988年、わたしが中学2年生の時、
『ところざわ太陽劇団』と改名し、旗揚げ公演をすることになったのです。

場所は池袋小劇場。

当時の池袋西口はまだちょっと街全体がアンダーグラウンドな雰囲気でした。
芸術劇場とかなかったですからね。
雑居ビルの4階で、ほかのテナントはすべて風俗関係でした。
どうやら2010年12月に閉館してしまったようです。
今残っているネットのデータをみると、キャパ80程度だったみたいですね。
はじめての小劇場はもっともっと小さかった印象ですけど。
雑居ビルのタッパの低い、ザ・小劇場でした。

これが私の小劇場デビューです。

14歳か15歳ですね。

こちらはほんの端役でしたが、稽古、そして劇場入りしてからのカルチャーショック、
この期間はほんとに夢のような時間でした。
脳内麻薬がたぶん24時間出まくってたんだと思います。
あの劇場の匂い、忘れられません。

実はここでちょっとした挫折も味わいます。
観に来てくれた親戚のおじさんが、終演後、
「おまえは才能がない、やめたほうがいい。」
と一言残して帰っていったのです。

これはさすがのモンスターもダメージを受けました。
一番の味方であるはずの身内に全否定されたわけですから。

そのときの出演者のみなさんが、当然ほとんどわたしより年上で、
高校演劇から、大学の学生演劇に上がったような人ばかりでしたし、
身体表現の会からの改名といっても、いまから思うとプロデュース公演のように、
小劇場ですでに活躍していた人がかなり集まったカンパニーだったんですね。

その中に入ったとき、井の中のリトルモンスターは、ただの中学生だったんです。

お客さんが去った劇場の客席で一人うなだれていると、
アンケートを読んでいた作・演出のタダシ先生が、一枚のアンケートをわたしに差し出します。
そこには『青いシャツの少年がよかった。』と一行だけ無記名で書いてありました。
わたしの衣裳は青いシャツ。
先生はわたしにいいました。
「いいか、一人でも『よかった』と言ってくれた人がいたならば、それはいい芝居だったんだ。」
夢うつつの中でも、その言葉はずっしりと、なんというか、救いでもあり、
お金を取ってお芝居を観てもらうことの責任も同時に感じるものでした。

おまえはなぜ芝居をするのか?

その問いが芽吹いた瞬間でもありました。

このアンケート事件には、実はわたしなりの疑いが長年ありました。

あまりにも落ち込んでいる私のために、先生が捏造したものではないのか。

きっとそうだろうなぁ。と、ずっと思っていました。

こちらもずいぶん時が流れて、長年ご無沙汰だった先生と再会した際、聞いてみたことがあります。

「俺は絶対にそんなことはしない。なぜなら、お前の人生の責任をとることはできないからだ。」

との返答をいただきました。

あの一行のアンケートを書いてくれた方、アナタのおかげでモンスターの中に
小さな天使の卵が産み落とされたました。

しかし、

その卵がかえるのは当分先です、ごめんなさい。

旗揚げ公演を終えた劇団は、通常稽古に戻り、わたしはやがて中3になり、受験のための活動休止期間に入ります。

なんとか志望の高校に合格し、劇団に合流します。

そこで私を待っていたのは、演劇生活10代での最大級の嵐だったのでした。

つづく


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