「追わせの赤鬼」
「夜明け」
「入渓時刻は夜明けから数えて3時間後」
これが私のダム遡上赤鬼狙いのスタイルである。
「いやいや、何を言っているのだ、先行者が入るではないか。」
そう、後撃ちになるのは必然、だから夜明け3時間後なのだ。
「先行者の尻拭いなんぞ、素人でもあるまいし。」
渓流釣りという沼に溺れているなら、そう思うのも無理はない。
4年前、赤鬼を狙い始めた当初、かくいう私も夜明け前から入渓していた。
街灯のない闇夜のなかで、ひとり長時間運転の疲れをとる。
先に車を停めていた私に気づき、溜息とともに走り去る地元ナンバー。
「ああ早めに来ていてよかった。」
安堵の気持ちでいっぱいになり、心を躍らせながら夜明けを待ち望む。
だが、希望に満ち溢れた夜明けとは背中合わせに、夕暮れとともに帰路に着く。
赤鬼が確実に潜む空間に身を投じながらも、2019-20シーズンは惨敗であった。
釣りという遊びは、カネとトキが実権を握る。
両輪がパンクしないように取り繕いながら、現場に足を運び続ける。
基本に忠実に進めてゆけば、狙ったターゲットに出会うことはそう難くない。
しかしこのとき、この赤鬼たる怪物に至っては、カネとトキを身に纏い、ただ一心に足を運んでも一向に彼らを手中に収めるイメージが湧いてこなかったのである。
「解脱」
迎えた2021シーズン、過去2年の経験から週末釣行に限っていては、到底辿り着けない極地なるものが存在するとの結論に至った。
こうなれば、学生時代から得意とする解脱を使うしかない。
とはいえ、曲がりなりにも社会人であるがゆえ、下手をすれば資金源が凍結する。
ここはひとつ、定期的な旅行土産と子供を褒めちぎることにより積んだ徳を開放し、遊牧民生活の権利を取得することとした。
時は2021年9月末、9日間の執行猶予を得た。
現場での張り込み調査のはじまりだ。
山女魚や岩魚はもちろん、鱸であれ、青物であれ、鮪であれ、釣りには魚種ごとにセオリーというものが存在する。
しかし、殊に赤鬼に関していえば、そのセオリーたるものが未だ確立されていないではないか。
ここで誤解してはならないのは、確立されていないだけであり、存在しないわけではないということだ。
となれば、まずは彼らの生態を理解し、試験系を確立せねばならない。
ここで冒頭にも述べたが、釣りには時間帯という概念に重きを置くのが常である。
なぜ我々は、朝一番や夕暮れ前に渓流へと足を運ぶのか。
なぜその時間帯がよく釣れるのか。
答えは簡単だ。
肉食動物にとって、薄暗い時間帯は捕食者に気付かれにくい。
裏を返せば、被捕食者にも気づかれにくく、襲いやすいからである。
夕暮れ前には水生昆虫のハッチがトリガーとなるから、というのも回答であろう。
では、赤鬼はどうか。
ダム遡上の彼らが口を使う時間帯とはいつなのか、なぜ口を使うのか。
ヒントはこのあたりに潜んでいそうだ。
「威嚇の伝統」
日本独自の文化が育んだ伝統的な釣法である鮎の友釣り。
友釣りに対するイメージはクリーンなものであり、高貴な遊びとして認識されていることに異論はないだろう。
だが、実態はどうだろうか。
鮎の友釣りは、彼・彼女らの習性を生かした引っ掛け釣りに過ぎないのだ。
釣法間には品位や流儀の違いがあることに異議を唱えるつもりは毛頭ない。
だが忘れてはならないのは、魚に針を掛けているという唯一つの事実である。
釣り人である限り、彼・彼女らにとってみれば我々は加害者以外の何物でもない。
さて、話を本題へと戻そう。
「友釣りでよく釣れる時間帯はいつですか」との尋ねに対し、
「いやあ君、夜明け前から待ち構え、薄暮よりオトリを放つのだよ。」
などという友釣り名人がはたしているだろうか。
赤鬼攻略1つ目のカギはここにある。
「そんなことはわかっているやい。」
「昼間なら釣れるんか、そんなことなかろうが。」
急がず焦らず、一歩ずつ。
核心部は眼前に広がる落ち込みを超えた、曲がり角の先にある開けた瀬尻にある。
「線虫くん」
線虫という生き物をご存じだろうか。
アニサキスを想わせるような、透明で、長細くひょろひょろとしている生物だ。
一言で言えば、気味が悪い。
だが、「人は外見だけで判断してはいけないよ。」
そう言わんばかりに、彼らは立派な医療従事者なのだ。
ここで線虫について深く語っても仕方がないし、そんな心持ちもない。
ただひとつ、線状透明体はがん患者の尿に好意があることだけを記しておこう。
なぜ、訳も分からぬ線虫たる線状透明体の話題を挙げたのか。
それは、儚くも悲しい9月の和の極みたる流れに見いだされる、線状透明体たる存在を見つけることこそがこの釣りの核心部であると確信しているからである。
従来、ガンは侵襲的な手段をとらない限り、検出が難しいとされてきた。
内視鏡検査などとは、願わくば疎遠でありたい。
赤鬼も同様、侵襲的な手段でなければ、これまでは検出が難しいとされてきた。
とはいえ、電気ショッカーなどという検査方法とは、願わくば疎遠でありたい。
しかし、線状透明体であればどうであろうか。
彼らは非侵襲的にガンの検出が可能である。
和の極みたる流れには、非侵襲的な手段を用いて検出可能な線状透明体が潜む。
しかも、その気味の悪い存在は、普段とは異なる座席に定位している。
いや、言葉を換えれば、普段の座席には定位できないというが正しきか。
「寝取りの妙」
赤鬼は雄でありながら、その妖艶なほどの姿ゆえに普段は白泡の下にひっそりと身を隠している。
張り込み調査をしていたあるとき、いやこれまでに何度も見た光景ではあるのだが、思考を巡らせると自然の摂理に反する状況をたびたび目撃していた。
錆色に染まった、秋の訪れを今か今かと待ちわびる20cm前後の雄が日中瀬尻に定位しているのだ。
水深はわずか30cm、人間の視力を以てしても容易に発見できるため、鳥類にしてみればホテルオークラのランチである。
なぜ日中、それも人目に付く座席に彼らが定位しているのか、おかしな話である。
日常生活では、日中は白泡の下に潜み、隠居生活を好む彼がなぜここにいるのか。
これ以上はあえて述べる必要性はないかもしれない。
彼が普段生活する席に座れない理由があるのだ。
それだけではない。
仮に彼がお払い箱であるのならば、異動せざるを得ないはずだ。
異動が実現すれば、彼はふたたび隠居生活を営むことができる。
その程度の落ち込みはあたりにいくらでも存在している。
つまりは、異動できない、いや自らの意思で異動したくない、なにかしらの理由があるのだ。
鱒一族にはスニーキングと呼ばれる行動習性がある、要は”寝取り”だ。
ここまで思考を巡らせることができたのであれば、20cm足らず、この小さな錆を纏った雄が線状透明体であることは自明であろう。
9日間の遊牧民生活を営める9月末、この生命体を捜し歩く時間はごまんとある。
ある小さな流入河川、ある時刻、ある淵の上、ある小さな瀬。
そこには2人の小柄な老人が腰を据えていた。
荷物を置き、ひっそりと身を隠し、小柄な老人の行動をうかがう。
待つこと十数分、いや数十分は過ぎただろうか。
隠居生活を営んでいた、妖艶な雄が姿を現す、赤鬼、いた。
赤鬼は白泡のなかから姿を見せるや否や、私の存在には目もくれず、その錆を纏った小柄な老人を何度も追い回す。
小柄な老人も自らの役割を果たすべく、その席を譲るまいと逃げ惑うが、ついには下流に広がる瀬への異動を余儀なくされた。
だが小柄な老人はしぶとい。
無秩序なその空間において、異動に権限など存在しない。
ものの数十分も経てば、異動先からふたたび自分の席にしがみつく。
「ああ、これだ、これで追わせの赤鬼が成立する。」
苦節3年、まだ見ぬ未知の領域に辿り着けたことを、笑った表情を見せるアケビの実とともに感じた秋の夜長である。
「赤鬼の流儀」
私は他人の釣法にとやかく言える立場でもなければ、言うつもりもない。
ただ、彼らに対峙するといえど、流れを横切らず、浅瀬に定位している彼らに対して、口元までルアーを運び、口を使わせることに関しては、なにかしらのアーティファクトな違和感を抱かざるをえない。
私個人の身勝手な思想ではあるが、自らの手で生を吹き込む伝統工芸品を追わせたいという、ただ一心、その私欲を満たしたいだけなのだ。
日頃より子供を褒めちぎっていた甲斐あって、3シーズン目に続き、4シーズン目はわずか1日半の釣行で狙い通りの赤鬼を手中に収めることができた。
来シーズンもこのスタイルを貫けば、間違いなく赤鬼に出会えると、不安が確信に変わりつつある。
小柄な老人を見つけ次第、奴らには目もくれず、じっとその時を見て待ち構える。
赤鬼釣りに必要なのは、捜し求める足、待ちの忍耐力、そしてなによりもタイミングだ。
小柄な老人が何度も執拗に追い回されるタイミングを逃すことなく、伝統工芸品を和の極みたる流れに馴染ませ続ける。
スレでもない、目先でもない。
しっかりとルアーを追い回し、口を開け、かぶりつく。
その空間を一度体感したのなら、空気のにおい、風の流れ、そしてその瞬間、二度と訪れることのない、和の極みたる流れを嗜んだ世界を忘れることはないだろう。
「対話と物語性」
赤鬼という存在は、やみくもに手中に収められればよい、という存在ではない。
そこに至るまでのある種の対話ともいうべき物語性が大切なのだ。
漁協規則に従うのであれば、口の前に持っていこうと、ペアリングを狙おうと、スレに近い形で狙おうと、我々の自由なはずである。
心の中に存在するわだかまりは、規則ではなく自己肯定感とわずかばかりの倫理観である。
私は、ペアリング中はおろか定位しているターゲットを狙うことすらしない。
だが、他者の行動を糾弾する権利などあるはずもなく、そんな気もさらさらない。
魚にとって我々は害悪な存在であることに変わりはないからである。
そこにひとさじの良心があるか、クリーンか、ダーティなのか、その程度なのだ。
「あとがき」
いわれてみれば何ともない。
威嚇行動なのだから、マズメにこだわらなくともよいだろうと。
先行者入渓後、数時間で警戒心がほどかれるだろうと。
別に夜明け前から入渓することが悪いとは言っていない。
ただ、その意味がどこまであるのか。
日中、線虫くんを見つけた時、心身ともに万全の状態でいられるのか、粘れるか。
その日1日を俯瞰的にとらえるならば、必ずしもその必要性はないだろう。
昨今、何十冊もの専門誌を熟読してきたつもりではあるが、赤鬼の核心に迫る記事は数少ないのではないか。
全国的に見ても、9月迄というリミットのなかで、流入河川の水温が12℃を切るダム湖は数えるほどしかないはずだ。
気候条件に左右されるにもかかわらず、狙える期間は1年でわずか十数日。
ここまで条件がシビアなターゲットは他に類をみない。
検討の余地は存分に残されている、まだ見ぬ未知の世界への扉は開いたばかりだ。
今年のシーズンの始まりとともに、またこの季節の到来を心待ちにしている。
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