行きつけのカフェと、理想と現実と夢中と狂気の話
私はあまり“行きつけのカフェ”というものをつくらない。
既に一度行った素晴らしいお店にもう一度行きたいという欲求より、新しいお店を沢山知りたいという欲求の方が勝るからだ。
いいお店もそうでもないお店も知って、勉強したい。
そういう意味では、カフェに行ってもリラックスせず、じっと店内を観察しているかもしれない。
しかし、そんな私にも唯一“行きつけのカフェ”と言えるお店がある。
そのお店に初めて行ったのは昨年の8月頃。その頃からほぼ月に一度のペースで通っている。
若いご夫婦で営まれている小さなお店。
深煎りの豆をゆっくりネルドリップしたコーヒーがおいしい。
今まで幾つもカフェを巡って、頭を殴られるような衝撃を受けたコーヒーを出すカフェもあったし、見たこともない奇抜なコンセプトのカフェもあった。
私はそういうカフェも大好きだが、行きつけと言える程定期的に通っているのはこの店だけだ。
何故か。
私のその店に行く楽しみは、マスター夫妻とのお喋りだ。
日常のこと、他愛ないこと、コーヒーのこと、夫妻はニコニコ聞いてくれたり話したりしてくれる。
気が付くと、その場にいた見ず知らずの他のお客さんと一緒に談笑していることもある。
そのカフェでは、他人と知人と友人の境界線が曖昧になるのかもしれない。
かと言って、近すぎず、干渉しすぎず。あるいは遠すぎず、放置しすぎず。
波に揺られているかのような心地よさがある。
一重に、マスター夫妻の人柄に因るところが大きい。
コーヒーやメニューはもちろん美味しいが、そうではない部分に惹かれている。
私が「カフェ」を好きになる時、コーヒーの味はもちろん重要だが、働いている方の人柄やお店の雰囲気といったものをより重視しているらしい。
さて、これでも「自分の店を出したい」と言っている身だ。
理想に胸を踊らせる一方で、現実を頭の中で照らして考える冷静さはある。
そういう雰囲気とかふわっとしたものを目指して掲げて店をつくるのは、自分の場合は「危ない」と頭の中で警告が聞こえる。
個人の小さな素晴らしいお店の再現性は低く、そもそも素晴らしいお店だからって上手くいくとも限らない時代だ。
時代の先を読んで、人が考えないことを考えて、ひたすらに努力をする。
それが、この時代なんとか生き残っていくためのたった一つの冴えたやり方なのかもしれない。
けれども、人の予測も考えも超えて、夢中や狂気がセオリーをひっくり返すことだってある。
ただ頭で冷静に考えるだけじゃなくて、胸に抱いた理想を大切に持ち続ける。
むしろ、理想を実現するために頭を絞る。
そういうことに夢中になって、狂気を持っていかなきゃならないのではないだろうか?
今はその答えを持ち合わせていない。
答え合わせができる日が早く来るように、今日もまた頭を絞る。
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