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珈琲詩篇 「最低の一日とそう悪くない一瞬」(前編)

地下鉄の窓に映る顔は、いつもより少し気合いの入ったメイク。
だけど表情は、いつもよりずっと暗い顔。
おろしたての靴も、お気に入りのワンピースも、窓に映ればくすんで見える。

店長から電話があったのは30分前。
31分前まで、私は就職してからしばらく会っていなかった大学の頃の友人たちと集まるために、いつもより軽い足取りで地下鉄のホームへ向かっていた。

「休みの日にごめん。二人欠員が出ちゃって、店が回らない。今日これから来れないかな?」

その2人はアルバイトの学生の子で、どちらも真面目に働いてくれている子だった。

そういえば、2人とも昨日体調悪そうだったな。

本社から人件費削減という勅命を受けて、うちのカフェも平日はギリギリの人数でシフトを組んでいた。
一人ならともかく、二人も欠員が出たら仕方ない。
社員の運命。休みは振り替えてもらおう。

でも...今日休みたかったな。

私を慰めるメッセージやイラストがスマホ画面を流れるのを眺めていたら、車内アナウンスはいつもの駅の名前を告げた。


「お疲れ様です!おはようございます!」

制服に着替えて厨房に入ると、その場にいたアルバイトの子やパートさんが口々に労ってくれた。

「まっちゃん!休みだったのにありがとう!」

「助かった!休憩回せる!」

予想していたよりも感謝が盛大だ。
こういう日に限って、結構お客様が入って忙しくなったりするもので、どうやら今日もその例に漏れなかったらしい。

奥から店長が顔を見せる。

「休みだったのにごめんね...やっぱり今日予定あった...?」

私のメイクがいつもと違うことに気がついたらしい。
私はなるべく笑顔で答える。

「いえ!大丈夫です!」

店長の顔が心なしか疲れている。
私の4つ年上の店長はバリバリ働くキャリアウーマンで、なおかつスタッフへの心配りも忘れない人だ。
そんな店長が休日の私を招集したのだから、本当にどうしようもなかったのだろう。

簡単に連絡事項を共有してもらい、私の持ち場―今日はケーキの作成とデザートの盛り付け―へ向かった。
厨房に入ったからには、プライベートなことは忘れなければ。
集中しよう。


ランチタイムが終わると、そこからは私の戦場の始まり。
うちのカフェはランチタイムよりもティータイムの売上の方が高い。
特に今日は混んでいる。
どれだけ手際よく動いても足りない。

「ケーキセット、ホッティー・ワンでお願いします!」

「A4卓、オーダー上がります!」

「F6卓、ラテ提供お願いします!」

怒号の一歩手前の大声が飛び交う。
私がただの「お客様」だったころには、静かな音楽が流れるカフェの裏側が、こんなに慌ただしいものだとは想像もできなかった。
今は反対に、この喧噪の向こうに静かな空間が広がっていることが少し信じられない。

就職した頃は、どんな気持ちだったのだろう。
私はただカフェが好きで、ケーキが好きで、いつか自分が考えたケーキがメニューになったら嬉しいかも、そんなことを考えていた気がする。

今はどうだろう。
朝早く起きて、夜遅く帰って、休みの日に呼び出されたりして。
考えていることはパートさんとバイトの子の休憩を回すことと、今日の仕込みを時間内に終わらせること、明日も寝坊しないようにすること。
自分のことなんて考える余裕すらない。

大学の頃の友人たちは、休日によく集まって遊びに行っている。
インスタに投稿される写真は楽しそうだ。

私はどうだろう。
平日休みは土日休みの人とは休みが合わないから仕方ないと、苦笑いでごまかしている。

私はどこかで間違えてしまったのだろうか。

「まっちゃん…それ、なに?」

パートの明日花さんに指摘されるまで、私は何も気づけなかった。
指摘されても、しばらく理解できなかった。

「えっ…あっ…」

私の手元には、作成途中のフルーツタルト。
最後の仕上げ。
しかしそれは、私の見慣れたものではなかった。

「仕上げの盛り付け、違うよね?」

私の手元のフルーツケーキは、乗るはずの果物も、クリームの絞りも間違っていた。
今月に入ってレシピがリニューアルした。
どうやら私は、無意識に先月のレシピでつくっていたらしい。

今すぐ仕上げた部分を全て剥がして、果物を切りなおして、盛り付けて…ああ、今までの作業は全てやり直しだ。
20分、いや、30分ロスしてしまうかもしれない…
休憩が回らなくなってしまう

「まっちゃん、大丈夫?なんかさっきからぼーっとてるみたいだけど…」

明日花さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「大丈夫です…!すみません!すぐやり直すので!」

気持ちはすごく急いでいるのに、うまく手が動かない。
もたもたしている気がする。
あれ?私ってこんなに動けなかったっけ?

仕上げは全部剥がした。
とにかく一旦冷蔵庫に入れなくちゃ。
急げ。急げ。急げ。急げ。
冷蔵庫の扉を開け、フルーツケーキをデコ皿ごと持ち上げる。
早くしないと、仕込みが時間内に終わらなくなってしまう。
冷蔵庫まであと15センチくらいの距離。
不意に、両手から重さが消えた。
厨房を飛び交っている大声が聞こえなくなる。
全ての動きがスローモーションに見える。
私は、勢い余って皿から飛び出したフルーツケーキを、ただ眺めることしかできなかった。

世界が再び音と時間を取り戻した時、目の前にはひっくり返ったフルーツケーキが落ちていた。
誰の目にも、修復は不可能だった。


つづく

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