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珈琲詩篇「最低な一日とそう悪くない一瞬」(後編)

前編


バックヤードに並べられた簡素な椅子とテーブルが、私たちの休憩スペース。

今は私の他には誰もいない。
文字通り人目を憚らず、私は机に突っ伏していた。

フルーツタルトがひっくり返った後の記憶は曖昧だ。

多分半泣きになりながら片付け、そのまま明日用に準備していたタルトを使って今日の分を間に合わせたのだろう。
休憩時間になった途端、自分のまかないも作らずに飛び出してきてしまった。

なにが「集中しなくちゃ」だ。
早く仕事を終わらせるどころか、仕事を増やしている。
こんな筈じゃなかった。

本当は今頃、友人たちと一緒ご飯食べたり、最近の愚痴を話したり聞いたり、くだらないことで盛り上がったり。今日は楽しい一日の筈だった。

なのに今日は、最低の一日だ。

スマホの画面をオンにしても、それは微動だにしない。

分かっている。
誰も悪くない。

欠勤になった二人も、私を呼び寄せた店長も、きっと今楽しんでいるであろう友人たちも、お客様だって

誰も悪くない。
もし悪い奴がいるとしたら、それは、こういうことを全て分かった上で働いている筈なのに、ちゃんと切り替えられなかった、自分だけだ。
自分だけが、悪い。

分かっている。
分かっている。けれど、

何故、涙が出るのだろう。

バックヤードの扉が開く音に、私は体を飛び起こした。

「まっちゃん、休憩中ごめんね」

明日花さんだ。
また何かトラブルだろうか。
私は次の言葉に身構えた。
しかし、彼女の言葉は予想外のものだった。

「お店に、お友達来てるよ」


店内奥のソファ席に、見慣れた背中が三つ。
今日集まるはずだった友人たちが、顔を突き合わせてメニューを凝視している。

そのうち、一人が私が立っていることに気が付く。

「あっ!まっちゃん!お疲れ様!」

「え…?なんで…?」

思わず口から言葉がこぼれた。
ほかの二人も顔を上げ、いじわるそうに、そして嬉しそうにニヤニヤしている。

「今日は4人で集まるって決めてたからね。来ちゃった」


この後、店長の計らいで私の持ち場は接客に移ったが、結局友人たちと言葉を交わせたのはこの数分間だけで、他のお客様の接客に忙殺されて話せる状況ではなかった。

けれど帰り際、手を振る友人たちに、私も小さく手を振った。


閉店作業を終え、帰りの地下鉄のホーム。
ちょうど電車が来るらしい。

私はスマホを取り出して画面をオンにする。
通知162件。
唖然とするが、犯人は自明だ。

友人たちとのグループ画面が、メッセージだらけだ。
私を隠し撮りした写真もある。

「いつ撮ったんだよ…」

私は
『今日は来てくれてありがとう』
と打ち込み、続けて
『全然話せなくてごめん…!』
と送信した。

すぐに一人、既読が付いた。
『お仕事お疲れ様!』
ありがとう、と入力しかけていたら、もう一言メッセージが届いた。

『がんばってるとこ、ちゃんと見てたぞ』

私は、その言葉があまりにもあたたかくて、すぐに返事を打てなかった。

ああ、そうか。
私の仕事は、頑張っているところを誰かに見てもらえる、そういう仕事なのか。

すぐに全員分の既読が付いて、メッセージが画面に上がった。

『まっちゃん、フルーツタルトおいしかった!』
『今度また集まろうね!』

あっという間にグループ画面は賑やかになった。

きっと私はこれから何年経っても、今のこの状況を「あのとき辛い思いをして良かった」なんて思わないだろう。
苦しかったことを美化したくない。

けれど、最低の毎日でも、この仕事もそう悪くないと思える一瞬は、確かにあった。

私はゆっくりと、メッセージを打ち込んだ。

地下鉄の窓に映る顔は、もう崩れかけたメイク。
そして表情は、いつもよりずっとひどい顔で涙をこらえている。
だけど不思議と、気持ちは軽くなっていた。



珈琲詩篇
最低の一日とそう悪くない一瞬

tera



あとがき
「この物語を書くまでに」

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