神戸アートビレッジセンター KAVC 手話裁判劇『テロ』観劇評

何か得体の知れない人間のようなものが中央に描かれている。読むには非常に困難な文字配置となっており、第一印象として「なんて不親切なチラシだ」と思った。この時私が"秩序のない文字列"に対して感じた感覚は、"スロープのない施設"、"手すりのない階段"、"音声案内のない入り口"などと同列ではなかったか。健常者の私が普段気にも留めないような些細と感じる一つ一つの事柄が、だれかの命を選択する事に繋がってはいなかっただろうか。私は人間であっただろうか。

あらすじは公式ホームページにて公開されている通りである。
裁判劇と聞いて「十二人の怒れる男」のようなものを想像していたのだが、全く考えが甘かった。

劇場空間に足を踏み入れると、静謐な四角形の舞台に光沢のある床材、椅子、机、踏み台、手摺に至るまで全てが黒で埋め尽くされており、点字ブロックだけが幻想的に白く浮かび上がる。
出演者には盲ろう者もおられる。
徹底的にハードルを排除した舞台空間を一目見た時に、あのチラシを手に取った時の「不親切さ」は完璧に意図されたデザインであったと打ちのめされた。

テロに遭った164人の乗客の命か
スタジアムの7万人の命か

それらの命を天秤にかけた少佐か
撃墜された乗客の遺族か

法か
感情か

論理か
エゴか

正義か
悪か

黒か
赤か

私たちは法の名の下に、目の前の男に判決を下す「参審員」としてこの舞台に関わった。

疑いもしない事、正しいと思っている事が、実はどこかで誰かを傷つけているかもしれない。
全くその事に気づくことさえ出来ない私たちは、この劇を突き付けられた後になってようやく、参考人として出廷したラウターバッハと同じ立場だったのだと気付かされる。真実を突きつけられ愕然とする彼を自身と重ね、打ちひしがれる事しか出来ないのである。

私たちは常に命を選択している。

選択しているのだ。

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