中学生のときの失望を読み解いてみる

こんにちは。
タイトルにある通り、中学生の時に私が覚えた失望までのプロセスを今日は紐解いてみたいと思う。

(回想開始)
田舎公立中学校のとある授業参観日。目玉となる授業も終わって、帰りのHR終了後になると生徒達は自らの親のもとかまたは帰宅するなど解散していった。
所々で母親(当時は99%が母親が参観に来ていたと思う)が井戸端会議を繰り広げていて、しかも田舎の小規模な中学校だったから半分の生徒は小学校も同じくしていて、親の顔もリンクするくらいには見知っていた。

クラスメイトの母親達が楽しそうに話しているのを横目に私は通りすぎた。そこに目に入ったのがその中の一人の手。その手は吸い込まれるように別の母親の胸へと移動し、そして柔らかくその手で包み込んだ。
そして楽しそうに笑っていた。揉んでいる方も、揉まれている方も、その周りに立つ人も。

もう中学を卒業して何年も経つ。しかし、あの時に感じた失望感を今でも思い出せるし、そして未だに失望しているのだ。
(回想終わり)

さて、言ってしまえば保護者が他人の胸を公衆の面前で揉んでいて、それをうら若き中学生がそれを見てしまった。と言う話だ。

今ならわかる、20半ばになっても人の胸を揉む人は、揉む(これは同性同士に限った話で論じている、おそらく中学時代異性が異性同士が局部を揉むのを何度もみたから、性別は関係ないだろう。またこれらに属さない性別の人は把握していないが、完全に無いとは言えないとここでは考えている)。だからあれは至極一般的な光景だろう。
そして私のそういうことに対する耐性が無かった、と一蹴してしまえばそれまでなのだが(実際そうだ)、もう少し深掘りするとこうだ。

私は性善説的観点で人を見てきた。これは哲学的観点の性善説のような厳密さは無いが、基本的に人はより良く生きているだろうし、そのために人に加害は避ける。ましてや未熟な子供ではなく成人した人ならば(そして子供の育成を担っている立場ならより一層)、理性や規範、道徳的観点を踏まえて過ちは起こさないと考えてきたのだ。なんなら、子供は狡猾な面もある、と当時の経験から子供の方が信用していないところもあった。しかし蓋を開けてみたらどうだろう。現実を自覚して失望したのだ。


今ならわかる。大人もたいして変わらないと。責任を負う機会が増えただけで、私の中から幼さは消えず、自分に甘く、努力はしない。私は未成年の時と何ら変わっていない。個別的な事案を一般的にしてしまうことにいささか問題はあるだろうが、逆に誰かが・私が急変してしまったとしたら、その契機となった出来事がトラウマ的に変えてしまったのではないかとすら思う。だから当時のそういう行為をしていた大人達もきっとそういう考えだったのだ、と一定の理解は出来るようになった。


あの時の出来事が頭を叩かれたみたいに色濃く残っているのは、「将来に夢を見ている状態+思春期」だったのだろうと今は感じている。正直当時から同級生に胸・局部を触れられる、ズボンを下ろされる(当時クラスで流行っていた、最悪だ)といった行為は嫌っていたから、それが私の性質であることにはかわりないのだが、思春期ともあればその小さな(ではないかもしれないけど)出来事がまるで重大な性被害にあったかのような気持ちになっていたのかもしれない。


残念ながら精神的な潔癖はあるだろう。しかし正規に転がっている年齢規制ありの作品や暴力性をはらんだ作品は好んで読むし作りもする(ひとつ前の読書報告の記事からもわかると思う)。ちぐはぐかもしれないが、私自身その微妙な線引きが崩れて他人を侵害するようなことを起こさないようには留意したい。

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