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じぶんという園芸品種に花を咲かせるために。

わたしのきもちをわかってないのは、ほかでもない私自身なのかもしれない。だれよりも、いちばん、わかってあげなくちゃいけない存在なのに、私はわたしという身体とそのアンテナがキャッチする感受性をときにないがしろにする。

エンジンがかかり続けているかのように、昼間の私は絶え間なく何かに気を取られ、何かに手足を動かしている。どうも、大事なことがあるようなのにそれに手がつかず、空転しているようなところがある。

星周りのせいかな、とも六月ごろは思っていたけれど、七月終わりの今になっても、その感じは抜けていない。何か、心の整理ができていない感じで、いつも意識の奥に滞泥している。きっといつもの年ならこれが行動力のなさに直結するのだろうけれど、ことしはお薬のせいかそれは少ない。だけれど、元々人より少なめのエネルギーをどうにか循環させているところに、化学的に潤滑剤を入れてどうにか動かしているわけだから、動力は長くはもたず、だから夜は早々にうとうとしてくる。8時過ぎにはうとうと、9時にはコトリ、の毎日だ(その分起きるのも早いのだけれど。おばーちゃんだな、と自分に突っ込む)。

実行機能や計画機能に、難のある脳をもっている。見通しを立てるのを、得意としていない。いくつも見えてくる可能性を絞ることは苦痛で、展開するままにそれを逐次楽しめたらどんなにか楽じゃろう、と思う。基本的に旅もそのスタイルで来たから(旅先でよく怒られたし、ひとに面倒をかけたけれど、どうにかなって、つど都度ありがたさを実感した)、未だに旅の計画を立てるのは、ヒコーキを押さえるのさえ苦痛だ。(だって、前もってかっちりかっちり、決めないと、乗れないんだもの!)ふらっ、と旅立ちたいのだ。(そこを行くと、いつも走っているローカル線を延々と乗り継げば良い青春18きっぷは、私の性に非常に合っていたのだな。)

この計画性のなさや、段取りのわるさは、時にその場面になって、処理速度が遅くワーキングメモリも少ないわたしの脳を、混沌とした混乱に陥れる。急かされているように常に感じるその時間は、楽しんだり華やいだりする気分がたとえ上層を流れていたとしても、どこか息が上がるような、ハカハカした(仙台弁で、ドキドキした、の意。良いトキメキにも、不安な心拍数の上昇にも使う。)気分を伴う。人の多い集まりは、だから正直苦手で、それの主催や事務方は、仕事でもしていたこともあるけれど、実際綱渡りしているような心境だった。適材適所、それを無難にこなすことのできる脳特性をもつ人がこの世にはいるのだから、そういう人に任せればよい、と最近では開き直っている。

さて、私が、わたしの身体や感性が快適であるように、環境を整えたい、となったとき、それは時に困難な作業となる。声を聞くことができても、それを実際に結び付けるのには、途方もなく長い道のりが、日本とサウジアラビアぐらいあるように感じられて、だからむしろ着手しない、という選択肢を無意識に取っていることもままにあるのを、自覚している。

しかし、そこは橋をかけなくちゃならない、と思う。たとえ一生かかったとしても、わたしのからだという、私のようでいて私でない具象であり媒体を、それに適した方法で水をやり日向と木陰と季節を用意できるようになりたいし、そうでないと私がわたしとして生まれた意味を全うできないような気さえする。切迫感があるのだ。それに不得手だと自覚しているから。いつか枯らしてしまわないかと、ちょっとそれは脅迫感にも近い。

もしわれわれがヒト科ヒト目という園芸品種だったとしたら、その中で色かたちや適した環境などの品種が分化しているのだとしたら、わたしのからだと脳特性・そこに乗っかるマインドの組み合わせは、扱いづらい方に位置すると思う。からだの必要と、脳特性のはたらきの、凹と凹が組まれて、間が埋まらずかみ合い留まることがないような感じ。安定なんて絵に描いた餅というか、到底手の届かない理想のようにすら、見える位。

この凹と凹のブロックの間を、うまく埋める――そういう積み木って、あるよねぇ…丸いのを、二つの橋のようなかたちにはめるやつ――何かを、私はずっと探している。一人では恐らく、完結しないのだ。誰しもがそうであるように。いや、そんな若干ロマンチックな考えとは逆に、凹の内部から自分で何かを生やし、または産み出し注ぎ込み、そんなものいつの間にか埋めちゃってるのかもしれない。人は一人でこの世にやってきて、一人で去るのだから。ゲートは、そうしてくぐってきたはずだ。

園芸学の修行は、まだまだ続く。


#発達特性   #感受性 #止まらない #園芸学


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