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フツウニナリタイ

 雨が降っていたので過去に想いを馳せていたら、自分の中にフツウニナリタイという強い欲求があることに気が付きました。

 それは、たぶん小学校高学年ぐらいの、仲の良い女の子たちが憧れのアイドルを一人(もしくは一組)持っていてそれをキャーキャー話す、のを「普通に」自分もやった方が良いんだろうな、と「好きなアイドル」を敢えて設定して敢えてキャーキャー言っていたあたりから、始まっているような気がします。…書いていても、痛いな(笑)

 そこから中学、高校と進学する中で、そういう「普通そうなことに合わせる」という行動は、クラスメートや部活やサークルなどの「集団」の「ノリ」やその輪に馴染んで彼らと一緒に時間を共有したい、という領域に広がりました。でも、何だかどこかツボが解らず、外れているんだろうなあという自覚もありました。でも、普通に、多くの人がそうしているように見えるように、馴染みたかった。

 それが、親になり、子どもができ、母親である自分と父親で家族という形態を存続して、住居を共にし、定型的な子育て要員として社会に参画する…というような普通、にまでしっかり敷衍されているのに、何だかぎょっとしています。

" It's all in your mind "「すべては君の考え方次第」

 は、最近4年ぶりにおかわりしたインド映画「Prem Ratan Dhan Payo」(邦題:プレーム兄貴、王になる)の劇中に登場する言葉ですが、常識や普通、という観念も私たちの頭が作り上げているものに過ぎませんね。ある社会の大多数の人に市民権を得ているものもあれば、ないものもあるけれど、本来ならばそれ以上でも、それ以下でもないはずのものです。

 だけれど、「多くの人がそうしている」イメージを、私たちは周囲の大人やメディアで目にして、それを「普通」とみなし、自分や他人をそこに合わせようとする作用を、半自動的に――つまり無意識に持っているんだと思います。そして、私たちはそれに自覚的であり、よくよく気をつけないと、自分自身も、そして他人も、そこからはみ出る部分を削ぎ落そうとしてしまう。意図しているならばまだ救いがあるけれど、これはこういうものでそれが正義だ、と信じてしまった日には救いがない。

 そして、それを知らずに普通を生きることに注力して一生を終える、という生き方もあるのだと思うのだけれど、それはアンパンマンの歌詞風に「そーんなのーはーいーやだー♪」と、わたしは、思う。

 これだけ不定形発達ではみ出し者な私だと思っていたのに、こんなにもフツウニナリタイという思いが強かったんだなー!それは、そのギャップに苦しむよなー!と、いう気づきを得ている雨の水無月下旬です。







時間を「普通に合わせて」使う使い方から、「あなたの必要なことに」使う使い方へ、シフトする本を翻訳しています。「普通」に囚われて、自分を生きるのを放棄していませんか?自分を生きる時間を、あなたに。


*ヘッダー画像は平井堅「ソレデモシタイ」よりPicks Tokyoさんよりお借りしました。たまらないから、リンクからぜひPVを見て見てください!

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